詩画比較論-前編- | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
美学演習で提出したレポートが帰ってきたので公開します(*´艸`)
 
 
この演習では『西洋美学史』をテキストとして使っているのですが、
 
毎回、報告者と反論者が同書の一つの章について報告/反論していきます。
 
この回(第10章)では僕は報告者として発表しました。
 
つまり、このレポートの構成と論の進め方はテキストに従っています。
 
 
この報告では例を多く出したのですが、思いっきり趣味に走ってます(笑)
 
(今回はレジュメも載せてみました)
 
もしご興味があれば、ご覧ください<(__)>
 
 
下記の文章で「小田部氏」とはテキストの著者小田部胤久氏のこと、
 
「本書」はテキストの『西洋美学史』を、「本章」は同書第10章を指します。
 
「まよい星」の記事で書いた発表は、これとは違う回のものです。
 

 
小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009
 
10 詩画比較論-レッシング
 
報告
 
 
1.詩は絵のように(pp.117-118)
 
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 本章の冒頭に古代ローマの詩人、ホラティウスの『詩論』から引用された言葉「詩は絵のように」が掲げられているように、古代ローマの時代から、さらに遡って古代ギリシャの時代から詩と絵の連関について語られてきました。本書に即して紹介するならば、第一章8ページにはプラトンが著書『国家』において、詩と絵画を並べて扱っていたことが述べられており、さらに本章118ページにおいては、「絵画が『色彩と形態を用いて多くのものを模倣する』のに対して、詩は『韻律と言葉と音曲によって模倣を行なう』からである」とあり、アリストテレスもまた模倣という観点から絵画と詩を結びつけて考えていたことが理解できます。小田部氏によれば、このような詩と絵画の比較論の中で、18世紀のドイツの劇作家レッシングの著書『ラオコーン』が影響力という点で群を抜いています。レッシングは、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』ではラオコーンが絶叫していると描写されている一方、彫刻の≪ラオコーン群像≫においてはラオコーンの口はさほど開いていない、つまり、≪ラオコーン群像≫を制作した美術家は詩人とは別の原理に従って制作したので、詩と彫刻とが別の表現になっている、と述べています。このように、レッシングは古代ローマ(あるいは古代ギリシャ)の美術家と詩人の考え方の違いを手がかりにしながら論を展開していきます。
 
それでは、本章に寄り添いながらレッシングの考え方を見ていきましょう。
 
 
2.並列的記号と継起的記号(pp.118-120)
 
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 レッシングは『ラオコーン』第十六章の冒頭において、「記号が必ず記号によって表示されるものと適切な関係を持たなければならないとするならば」と仮定した上で、「並列的な記号(つまり色と形)を用いる絵画の本来的な対象は並列的な対象(つまり物体)」であり、一方で「継起的な記号(つまり時間内の分節音)を用いる詩の本来的な対象は継起的な対象(つまり行為)」であると結論しています。
 
 静止した芸術である絵画が行為ではなく物体を描くのが本来的であるという考えはアニメーションと絵画の違いを考えると分かり易いでしょう。絵画が継起的な対象を描いた批判されるべき例として、レッシングは2つの瞬間が一枚の絵に組み込まれているような絵画を批判しています。(資料☆1)日本人には異時同図法という言葉が思い浮かぶかも知れませんが、これは、レッシングの考えに従えば、並列的な記号によって継起的な対象を描こうとした例として批判されるでしょう。また、言語による説明を要するような、過度に寓意化された絵画もレッシングは批判しています。
 
資料☆1
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《捨身飼虎図(玉虫厨子)》
 
一方、詩がその本来的対象である行為を描いている例として、ホメロス作『イリアス』第一歌43-53行を紹介しましょう。
 
ホメロス
 『イリアス』
 こう祈っていうと、ポイポス・アポロンはその願いを聴き、心中怒りに燃えつつ、弓とともに堅固な覆いを施した矢筒を肩に、オリュンポスの峰を降る。怒れる神の肩の上では、動きにつれて矢がカラカラと鳴り、降りゆく神の姿は夜の闇の如くに見えた。やがて船の陣から離れて腰を据え一矢を放てば、銀の弓から凄まじい響きが起る。始めは騾馬と駿足の犬どもを襲ったが、ついで兵士らを狙い、鋭い矢を放って射ちに射つ。かくして亡骸を焼く火はひきもきらず燃え続けた。(ホメロス著/松平千秋 訳『イリアス(上)』岩波書店、1992p.13
 これは、行為を描いていることがお分かり頂けると思います。続いて、詩が並列的な対象を描こうとした例としてレッシングに批判されているハラー作の『アルプス』を紹介しましょう。
 
 ハラー
 『アルプス』
  ここには灰色の霧にも似て、金魚草が低くはっている。自然はその葉を十字に結んでいる。やさしい花は、紫水晶で作られた鳥の金色の二つのくちばしを見せている。またむこうには輝く葉が一つ、指の形に刻み目をつけられて、きよらかな小川に緑の光を投げている。ほのかな紅に色どられたよろい草のあえかな雪色は、すじのはいった星がたの白い光線に包まれている。ふみにじられた野にも緑玉とばら色のひめしゃくなげは咲き、なでしこは深紅の衣で岩を覆っている。(レッシング著/斎藤栄治 訳『ラオコオン』岩波書店、1970
 たしかに、絵のごとく物の形や色を描写した詩であることが理解できると思います。
 
 
3.イリュージョンの可能性(pp.120-123)
 
イメージ 3
 
 しかし、レッシングは言語が並列的な対象を描く能力自体を否定するわけではありません。言語の記号は恣意的であり、それゆえに言語は継起的な対象のみならず、並列的な対象をも描き得るとレッシングは言います。それでは、なぜハラーの詩は批判されなければならないのでしょうか。
 
 レッシングはすばやさという要素を挙げています。たとえば、この詩と同じ風景を絵画で描いた場合、鑑賞者は瞬く間に全体像を捉えることができます。一方で、この詩から風景を思い描く場合、ひとつひとつの物体を詩人が描いていくのに従って思い描いていかなければなりません。そして、全体像を捉えるには、この詩を読み終わるまで、それらひとつひとつを覚えていなければならない。本章に従えば、このように対象を個々に分解して「明晰にして判明」な表象をもたらしつつも、全体の表象を犠牲にするのは分析的言語の特性であり、詩本来の特性ではないということになります。つまり、この詩は、詩本来の特性を生かせていない「詩の意図にもっとも適しているとはいえない」詩だという批判なのです。
 
 一方、レッシングの考える詩的言語とは、対象を個々に分解するのではなく、全体の概念をすばやく喚起し、結果としてイリュージョンをもたらすものです。これは少し分かり難いかも知れません。ここで僕は、「画中に詩あり、詩中に画あり」と呼ばれた中国唐の詩人、王維の詩を紹介したいと思います。ハラーの詩と同じく風景を描いた詩ですし、「画中に詩あり、詩中に画あり」と呼ばれたことを考えるならば、むしろレッシングの批判の対象となりそうな気がしますが、実際にはそうでないことがお分かり頂けると思います。 
 
 王維
 『鳥鳴
人 閑にして桂花落ち
夜 静かにして春山空し
月 出でて山鳥を驚かし
時に春澗の内に鳴く
(訳) 
のどかな侘び住まい、もくせいの花は音もなく落ちる。
夜は静かにふけて、春の山はひっそりしている。
やがて明るい月がのぼると、それに驚いた鳥たちがときどき春の谷川で鳴き騒ぐ。(松枝茂夫 編『中国名詩選(中)』岩波書店、1984pp.267-268
 ここで僕はハラーの詩との決定的な違いを一つだけ指摘して置きたいと思います。それは、王維の詩には生き生きとした動きがあるということです。花は音もなく落ち、月がのぼると、鳥たちが鳴き騒ぐのです。このように、王維の詩は、一定のリズムに則りながら、時間とともに移りゆく風景を捉えていきます。詩の中に画があると云われた王維ですが、その画とは全く静止したものでありませんでした。王維の詩は時間のうちに存在しながら、我々にイリュージョンの体験をさせてくれます。つまり、王維の詩を読む時、読者は、読者自身が、あたかも王維の詠んだ詩の世界が目の前にあるかのように感じるのです。このようなイリュージョンの可能性こそがレッシングの考える詩的言語の特性です。しかし、ハラーの詩のように対象が静止していた場合、このイリュージョンの体験は起こり得なくなってしまいます。なぜならば、過ぎ去る筈のものが何時までもそこに留まっていることにより、我々は詩人の発した言葉を記憶していなければならなくなってしまうからです。
 
 たしかに言語は恣意的な記号なのですが、レッシングは、個々の言葉の継起の仕方と、それの表現する事物の継起の仕方が構造的に対応しうると考えていました。小田部氏は記号と記号によって表示されるものが適切な関係を持っていることを、記号が透明であるという言葉で表現していますが、ハラーの詩のように継起的な記号によって並列的な対象を描写するような状況では、記号が透明にはなりえません。透明な記号とは、それを意識しないもののことを指すからです。また、小田部氏によれば、透明な記号とは並列的記号が並列的対象を描写する絵画のうちに典型的に見られるものであり、この点から言えばレッシングの考え方も、「詩は絵のように」という命法に従っていることになります。つまり、レッシングは詩と絵画の描写対象の差異を明らかにしましたが、表現形式という観点から見れば「詩と絵画は共に透明な記号を用いて表現しなければならない」と考えていると言えるでしょう。