ボヤ~んとした話 | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
美と信仰は似ている。

どこにもないもの、

だけど、どこにでもあるもの。

人は、

八百万の神と、

唯一絶対の神とは違うと云う。

でも、僕は同じものだと思う。

どこにもないもの、

そして、どこにでもあるもの。

全ての背後にあるもの。

僕らは、何千年もの昔から、同じ問いを続けている。


神は姿も形もないと云った昔の人は賢者だった。

僕は、

これをformではなく、

materialのことだと考えたい。

神は、

文字通り存在しない。

どこにもないもの。

だけど、誰もが感じられるもの。

美と信仰とは似ている。

本質的には孤独なものだ。

神は絶対的な帰依を求める。

美の根拠は如何なる束縛からも自由なこと。

これらのことが指し示していることは、ただ一つ。

無への方向性。


僕が僕である時、

僕は世界とは交われない。

僕が無であれば、

僕と世界とは一つになる。

それは、本質的に孤独だ。

美と信仰とは似ている。


僕が誰かと一緒でいたいと感じた時。

そこには、既に排他性が生じている。

美へと至るただ一つの道。

神へと至るただ一つの道。

それは、自我を消しさること。

ユゴーの「レ・ミゼラブル」は、

そのことを示唆している。

だから、あれは悲劇でも何でもない。

何でもないということが重要なのだ。


僕は1と0との間を行き来する。

きっと、

僕の探しているものは、

そこにあるのだろう。

1と0の間。

人と神の間。

どこにもないもの。

どこにでもあるもの。



普遍




ウィトゲンシュタインは、

言葉の限界が世界の限界だと言った。

僕は少し違うと思う。

言葉は1を指し示す。

でも、本質的に言葉は0なんだ。

0の記号。シミュラークル。

指し示さないことこそ、言葉の本質。


コリングウッドは、

情動は表現を受けて明らかになるというよりも、

表現を受けて初めて表現になると言った。

僕は、少し違うと思う。

表現を受けたものと、

表現を受ける前の情動と、

どうして連続として捉えられるのか。

それは似ていて非なるもの。

つまりは、全く別のものだろう。


個々の感情が、情動が、

世界の中に融けていく。

E+W=A

つまりは、それが芸術だ。


美と信仰は似ている。

芸術は、

0から出でて、

1へと融けていく。

神に対する信仰。

聖なるイコン。

美に対する憧憬。

永遠の下僕。

それは、

1の世界にありながら、

0の世界へと帰っていく。