振り返り、五十嵐先輩に手を振った。
自分の住んでいるマンションにつくと、心臓がバクバクと音を立て始める。このエレベーターで上がる瞬間が一番嫌いだった。母が倒れていたらどうしよう。そんな想像が止まらなくなる。
家に帰ると人の気配はなく、物音ひとつしなかった。思わず息を吐き、椅子に座る。
私の家はいわゆるシングルマザーだ。といっても父の顔は覚えている。最後に見たのは高校一年生の冬。父は、母と私を残して愛人の元へ行ってしまった。中学に入学したころから、口喧嘩が増え、衝突しているということは察していたが、その姿を目撃したことはなかった。何か原因があるのだろうとは思っているが母にそれを聞いたことはなかった。聞く勇気もなかった。
ある日、学校から帰ってリビングへ行くと、そこには父の名前だけが記入されている離婚届けと共に、結婚指輪とお金の入った封筒が置かれていた。あまりの衝撃に母の務めている会社へ電話を掛け、母は帰ってくると、靴も脱がずにリビングへ駈け込んできた。そしてリビングに置いてる離婚届と結婚指輪を見たとたん、いきなり叫び、キッチンから包丁を持ち出して自分の手首を切った。その後は覚えていない。気がつけば朝だった。目が覚めると、病院のベッドで横になっていて、隣に住んでいる幼なじみの慧が、横の簡易イスに座っていた。叫び声を聞いて飛んできて、倒れている母を見て救急車を呼び、座り込んで放心している私を介抱してくれたらしかった。母は入院して、手首は縫うことになったが、命に別状はなく、残ったのは過呼吸と自傷癖だった。
私はその事件以来、母の症状を気にしながら高校に通い、バイトをして、お金を稼いだ。父は半年に一度、ポストにお金を入れた封筒を入れていってくれたが、それでは不安だったのだ。母は以前のように働くことはできず、一か月の半分以上を家で過ごしていた。私も母の状態が悪いことがわかると早退や欠席を繰り返した。それでもなんとか高校を卒業し、大学へ進学を決めた。就職をして母に生活の不便をさせたくないと思っていたのだが、母に大学は卒業してほしいと強く言われたのだ。それならと家の近くにある、国公立の大学をしぶしぶ受験したところ、合格通知が届いたため大学生となった。
大学を受験するとなってから、母は前よりも働くことができるようになった。要は心の持ちようなのだそうだ。体調の良い日はできるだけ働き、愛弓を大学へ入れるためにお金をかき集めた。最初は月に一度のペースでひどく落ち込み、過呼吸や自傷を繰り返していたが、それ以来、半年に一回のペースになり、だいぶ落ち着いたのだ。
夕食の準備をして、母の帰りを待っていると、玄関の方からドンドンと大きな足音が聞こえてきた。ドアから顔を出したのは慧だ。
「ただいまー。腹減ったな。」
「おかえり」
慧は、マンションの隣の部屋に住んでいる幼馴染だ。昔はそれほど家に入り浸るようなことはなかったが、あの日以来、毎日のようにやってくる。高校でも家の事情を話して欠席や早退が多い理由を一緒に先生に説明したり、クラスでからかう奴等がいれば、黙らせたりしてくれた。それに加え、私に用事がある時は、母の様子を見ていてくれる。先輩とは違うにしろ、私にとって恩人であることに変わりはない。
慧はコーヒーをコップに注ぐと、テレビをつけてソファーで横になった。まるで自分の部屋のようにくつろいでいる。私は夕食の準備を続けた。今日のメニューはフレッシュサラダとジャガイモのポタージュ、茄子のミートソース。「もうすぐできるよ」と慧に声を掛けると、今度は玄関からヒールの音がした。今度こそ母だ。心臓が強く脈打ち始める。
「ただいま。あら、慧君いらっしゃい。」
母の顔を見て愛弓は胸を撫で下ろした。
「おかえりなさい。今日はパスタだよ。ジャガイモのポタージュもあるの。もうできるから、コート脱いで手洗ってきて」
準備が整い、三人でテーブルを囲った。
「おいしい?」
「えぇ」
「あぁ、うまいよ。オレこのスープ好き」
「そうなの。ならよかった」
それ以上の会話は続かない。いつものことだ。食器がカチャカチャと音を立て、静けさが広がる。食事が終わるとワインのせいもあり、眠くなったらしい母は、ソファーに移動するとそのまま寝てしまった。私もしばらく本を読んでいたが起きる気配のない母にブラウンケットを掛けると、一気に気が抜けた。
後片付けを済ませ、紅茶二人分淹れて、自室に行くと、そこでは慧がネットを開いていた。
「勝手に部屋のパソコン使わないでって言ったでしょ」
「悪りぃ。ちょっと調べたいことあって」
ふぅと息を吐きだし、諦めてベットで本の続きを読んでいると慧が顔を覗き込んでくる。
「怒るなよ。ちょっと使わせてもらっただけなんだから」
「何回も言ってることじゃない。次はやらないでね」
「わかったよ。…そういえばさ、今日って五十嵐さんに会ったの?」
「バイト一緒だっただけだよ」
「じゃぁこれ何?」
慧が持ち上げた、本が入っていた袋を受け取り、中を見ると、クッキーと手紙が入っていた。
「わからないけど、後で見るから置いておいて。後、人のもの勝手に見ないで」
「わかった」
何度言っても人の者を勝手に見たり使ったりするのだから、わかってないだろうと思ったが放っておいた。中身は気になったが、先輩からのものは一人で見たかった。