ひとひらの言の葉 -5ページ目

ひとひらの言の葉

ふと思うこと

私には他の人に聞こえない声が聞こえる。

そう言うとオカルトな話かと思われるが。そういう事ではない。
声とは本来、発声器官から発せられる音の事。
つまり“音”の一種であり、聞くのは耳である。

私が聞こえるというのは音として認識できない声。
言葉として表現するなら『心の声』といったところだろうか。

人間は言葉として発しなくても何らかの行動に心が表れる。
心理的行動を無意識に分析してしまっているのかもしれない。

通常の人なら切り捨ててしまうような小数点以下の数字を私は無意識に拾ってしまうらしい。
自分が少し人とズレていることは、子どもの頃から何となく分かっていた。

良いところで噛み合えば気の利く人、悪い部分で言えば・・・気味の悪い存在だろう。
「見透かされているみたい」と実際に気味悪がられたこともあった。
当然といえば当然だ。

通常の(という言い方もおかしいが)人と噛み合わせるには通常の人が認識できる部分を見なければならない。
“声”として発せられる部分だ。
その部分を認識し、噛み砕きながらも自分の無意識下で拾ってしまう膨大な情報量。
切り捨てていかなければ頭はパンクする。
だがなかなかに優れている瞬間記憶能力が切り捨てさせてくれない。
一度記憶したものはほとんどのものが画像として頭に残る。
自分でもよく精神的に参らなかったとちょっと他人事のように感心したりする。

そしてその“声”が聞こえたために不思議な出会いがあった。
彼と出会えたことで忘れていたもの、無くしてきたものを取りに帰れた気がする。

おそらく彼も私と同じ感覚を持っている人。
どこか人と違う所を見ている人。
きっと彼の“声”だから私に聞こえたのだと思う。そして彼も私の“声”を聞いたのだろう。

確かめる術はきっともうない。
それでもいい。
彼が幸せであればそれでいい。

無謀とも言えるぐらい真っ直ぐな人。
生涯忘れることのできない人。

きっと後にも先にも、彼以上に愛する人には出会えないだろう。
出会えたことに感謝します。

ありがとう。

身長が低い私はコンプレックスもあり、ハイヒールをよく履いている。
運動性が重視される用事以外では必ずと言っていい程、踵の入っているものを履く。

ハイヒールの起源に関して定説はいくつかあるが定まっていないとのこと。
汚物を避けるためという説が有力だそうだが、それだけで嫌なことを避けて通れるならありがたいものだ。

現代ではファッション性のために履かれているものだが、ある人がこんな事を言っていた。
ヒールの高さ=幸福度の高さであると。
踵の低いものばかり履いていると幸福が逃げていくと。

何が幸せかって決めるのは一人一人違っていて、全て満たされることが幸福という訳ではない。
何も持っていないように見える人が実はとても幸せで、何でも持っているように見える人に限って本当に欲しいものは手に入らないものだったりする。
欲深い人間は常に上のものを要求する生き物だから踵の高さなんて一定にできるはずもなくなる。

ああ、だから自分自身の足場は不安定なんだ、なんて妙に納得してみたり・・・
そんな不安定な自分を誰かが知ってくれるだけで、誰かが見つけてくれるだけで救われたと思う。

幸せになることなんてとうの昔に諦めた。
欲しいものなんてそんなにない。

 

一時でも一緒にいてくれただけでいい。

見つけてくれただけで、もう充分だ・・・

それでも心のどこかで願ってるんだろうな・・・

だから私はきっと明日もハイヒールを履く。
少し歩き辛くても。
そうすれば少し幸せになったような気がするのだ。

先が見通せるような気になるのだ。

今年は異様なぐらいの気温。
いわゆる“猛暑”が続いている。
今までにも暑い夏はあったが今年はちょっといつもとは違う様だ。

少しぐらい雨が降ればと思うのだけど、降る時はゲリラ豪雨か台風かというのだから質が悪い。
潤う程度の適度な雨であればいいのだけれどね・・・

暑すぎて仕事が滞る。雨が降っても仕事が滞る。
仕事中心に生きているわけではないけれど、やはり滞ってしまうと重荷になる。
できるだけスッキリとさせた状態で翌日を迎えたい。

自分の目標とするものが明確になってきて、仕事に本腰を入れなければならない。
付いて来てくれる人達を導いていかなければならない。
今とても大事な時なのに天候に足を引っ張られる。

いっそのこと一度ずぶ濡れになってしまえばいいのかもしれない。
それができたら苦労はしない。
暑さも雨もいつか通り過ぎる。

いつか穏やかに晴れる日が来る。

台風が過ぎ去ったあとの爽やかな秋晴れが待ち遠しい。