こんばんは、守田矩子(のりこ)です。

 

Jun天人さんのもとで学んでいた頃、
毎日の目標が定められていました。

9月24日の目標は、

『人生最期の日だと目覚め、

 

目を覚まさないと思って寝る』

でした。


さぁ~、これも困りましたよ。

『今日が人生最期の日』
だと思って目覚めるのは簡単です。
ずっと実行している事だからです。



しかし。。。

『目を覚まさないと思って寝る』

全然出来ない!

 


『目を覚まさないと思って寝る』ということは、

寝ている間に死を迎えるってことですよね。

そう思うと、全然、寝る気にならないの!

 


寝ている間に
死ぬなんて嫌だ~~~~~!!!

って、毎晩、思ってしまうので。


“もう死んでもいいな~”と思ったクセに、

結局、死を怖がっているのか、私?」
と思って、相当ガッカリしたのですが。。。

 

 

『死の恐怖』とは、ちょっと違うことに気づきました。

 

この1週間、ずっと自分を観察して気づいたことは、

『意識の無い間に、死を迎えることが凄く嫌!』

だという想いだったのです。


私は、しっかり意識のある間に、『死』を体験したいと

思っているのです。
だって、一生に1回しか体験できない、
貴重な機会ですから。

 


『寝ている間に、つまり、自分が知らぬ間に死んでいる』

なんて絶対嫌だ!と思ったら、
「目を覚まさないと思って寝る」ことが嫌で嫌で。
毎夜、なかなか眠れずに困りました。

 

 


Junさんは、こう書かれていました↓
(オンラインサロン内の投稿は口外禁止ですが、

許可を頂いて掲載いたします)

 

 

 

さあ、人生、今日で私は静かに亡くなることになりました。
もしそうだとしたら貴方はどうするでしょう。

何も成し遂げられなかったと嘆きますか?
いやいや嘆いてる時間が勿体無い?

大きな事を成し遂げた人は、幸せですか?

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

何をした人生だろう?

精妙に思い出してみると、周りの人のおかげであり

自分は何も出来ていないと感じるかもしれません…

仲違いしたままの人…どうしましょう。

今日が最期なのに喧嘩をふっかけてくる人が現れました。
どうしましょう?

何故人は争うのでしょう。

残された時間がなさすぎて

自分が、ちっぽけに感じるかもしれないし、

逆にそれなのに、よくやったと自分を褒めるかもしれません。

出会う人、出会う風景、たわいもない日常、その有り難さ。
いろんな事を感じなが人生最期の1日が過ぎていきます。

そして、眠る時…
もったいない気持ちで
瞳を閉じる時…

貴方は、どんな事を考えているでしょうか?

 

 

 


私だけではなく、サロンメンバーの誰もが、

Junさんのこの『問い』に答えられなかったのです。
答えを持っているのに、
黙っていただけかもしれませんが。。。

正直、私は何も考えられなかった。

 

 

 

そんな風に、悶々とした毎日を過ごしていた時、
タイから、仏教の高僧・ チャーンチャイ大長老 が

大阪中崎町にお越しになられました。

 

 

 

 

 

(チャーンチャイ大長老(右)とJunさん(左))

 




 

私はお目にかかれなかったのですが、
チャーンチャイ大長老のお話が、今週の目標の

「人生最期の日だと目覚め、目を覚まさないと思って寝る」

に関する気付きの内容だったそうです。

 

 

 

 

チャーンチャイ大長老のお話を、サロンメンバーのかっちゃん

シェアしてくださいました↓
 

 

瞑想って聞いて、どんなイメージを持たれますか?

坐禅を組んで、目を閉じて…
ってイメージを僕は持っていたのですが、

大長老曰く、それだけが瞑想ではない、と。

瞑想はどこででも、いつでもできるもの。

そしてやり方を覚えたら、自転車の乗り方と同じで、

やり方を忘れることはないものらしいです。

瞑想とは「『今』の心を確かめること」

瞑想のコツとしては

『今』のからだの姿勢や感覚を感じること。

例えばあなたが今座っているとして。

おしりが椅子か床に接しているのを感じる。

これは『今』座っているから『今』感じられる感覚です。

今自分が座っている。

これは事実であり、知っていることです。

知っていることと、考えていることは別のことです。

心は考えることで、未来や過去に時間を超越します。

(心の速さは光の7倍だとも仰ってました)

でも体が『今』感じていることは『今』なのです。

体の姿勢や感覚を感じて『今』に意識を集中して、

瞬間瞬間良いタネを植えていく。それが瞑想。

中立な心で、因果のうち、因だけに集中する。

そうすると、自ずから良い結果が生まれる。

心は考えることで期待をしますが、これが誤りだそうです。

そうすると結果が逃げてしまう。

期待を減らす、期待をなくすのが、在り方としては望ましい。

「知っている」と「考える」は争います。

そうすると心は安定しません。

「今を置き去りにしたら心が可愛そう」
という大長老のお言葉が

昨日から頭の中をぐるぐる回ってます。

「体の姿勢、体の感覚は、心の休憩所」だそうです。

「体の具合で心に報告する」とも仰ってました。

さっきの呼吸と今の呼吸は同じではありません。

体の感覚を感じる ということ。

『今』の体の感覚に意識を向けるということ。

 

あなたの呼吸はこれまでに止まったことはありますか?

ないから、今生きていますね。

それを確かめます。

 

今、確かめられる事実、知っていることを、今、確かめます。

体は体、心は心。

心は素早く動きますが『今』に気付く力を増やすと、

自分で自分のことを応援できるようになります。

それが心を大事にすること。

瞬間瞬間に気付けるということは、心の宝です。

気付いてるときに瞑想はするもの。

できる、できない、ではなく、そのままやること。

諦めないこと。

誰かに教えてもらうものではない。

答えは自分の中にある。

あなたの人生は、あなたで満たせます。

 


 

その投稿に対して、別のサロンメンバーさんからこんな質問が↓
 

1つ質問があるのですが、
チャーンチャイ大長老のお話の中に)

「瞑想とは」といった説明はありましたでしょうか?

『マインドフルネス』と『瞑想』とは
異なると聞いたことがあったのですが、

ぼんやりとしてわからないのもので。

 

頭(言葉)で理解しては、
いけないものかもしれないのですけれど・・・。

教えがもしあったなら、お聞きできたら幸いです。。

 




質問に対するJunさんの答えに、またまた衝撃を受けました↓


 

せっかく皆の語り合いのサロンになってきているので、

僕は出来るだけ口を挟まない方が良いんだけど、

これは、大長老はサラリとしか話していないことなので

僕が補足させてもらいます。

 

 

仏教を英語で勉強すると出て来るんですが、
『マインドフルネス(mindfulness)』とは、

瞑想の時に使う「念(サティ)」という概念の英訳語です。

「心を留める力」「気付きの力」「注意すること」などと訳されます。

つまり、マインドフルネスは、元々仏教の用語。
東南アジアやスリランカなどの

上座部仏教で行われている瞑想法からきています。

そこから、宗教的な要素を取り除いて、

科学的に、集中力が高まる、落ち着いて平常心が養われるなど、

その効用が証明されたものをマインドフルネスというわけです。

なんだーそれなら同じじゃない?

 

 

いえ、決定的に違います。

それは、「徳」の概念があるかないか。
または、何のために?という動機が違います。

 

 

瞑想修行は、強くなる、痩せるなど、

何かの効能を得るために行うものではありません。

心その本質を探求するものです。

仏教は神を信じません。
神はいないというところから始まります。

 

神は信じていないけれどブッダが悟ったという事を

信じているのです。

それがどんなものなのかわからないから瞑想をするのです。

その過程で意思力がついたり、

結果セルフコントロールが効いて痩せたりするかもしれませんが、

それが目的ではありません。

日本の禅になると、それはさらに進んで、

禅は禅をするためにする…

と一切の利益や功利主義から離れた心を求められます。

つまり、瞑想の中の一部を

ビジネスや自己実現に使える所だけを取り出したのが

マインドフルネスです。

しかし、この功利主義による幸福は

悟りの境地と比べ、長続きするでしょうか?

心が落ち着いて利益を上げられたとして、

それはその瞬間は幸せでしょう。

瞑想的に言うと、宇宙のエネルギー保存の法則で、

「得」をすれば、必ず「徳」は減ります。

ブッダはそれを「無常」と言いました。
無常…つまり常では無いという事です。

 

 

人は欲深く、飽きやすいものです。

功利主義で幸福や充実を得ても、

人は永遠に刺激と満足を求め続け
忙しく迷想を続けるでしょう。

逆に、瞑想の過程で色々な御利益が身についても

無常を知っていると、その魂は得たものを周りに還元し、

世のため人のために使おうというようになります。

「徳」に関する叡智があると、

無理にやせ我慢しなくとも、得た智慧や境地は、

この肉体を捨てるまで他に循環していこうとするものです。

これを
『利他(他者のため)』、
『利地(地球のため)』、
『利世(次世代のため)』

といいます。

マインドフルネスにとって『周り』は、自分以外の

自己実現をするための資源です。

どう利用してどう料理すれば

自己の望みが手に入るのかという「対象」になります。

瞑想にとっての『周り』は

自分と不可分なつながりの中に存在します。

私たちは空や大地、宇宙とリアルに繋がっています。

繋がっているものから得たなら、

お陰様として得たところに還元して

エネルギーのバランスを取ろうとする…
 

そうして宇宙全体がレベルが上がっていく、

それがブッダ的なしあわせなわけです。

僕はその体系を瞑想だけでなく、

身体の運動、意識の使い方まで広げ、

ライフスタイルとしたものを

『天響必然道(あまゆらひつぜんどう)』
と名付けたわけです



投稿の引用はここまで。

 

 



この一連のやりとりで、

『人生最期の日として目覚め、
目を覚まさないと思って寝る』とは、
「今の心(と身体)を確かめること」なのだと

理解した私です。

 

 

 

 

 

 

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