kyottides的 喜怒哀楽 -15ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 懐かしいジャズということで、バンジョーとクラリネットにこだわってみました。結局のところ、この二つの楽器で象徴されるのはデキシーランドジャズということなのかな、と思いました。でも、もっと哀愁のこもった曲もあったように思うのですが・・・。
 ところで、吉田日出子さん、大好きな女優さんなのですが、たしか、難病と闘っているらしく、心配です。快癒されることを願うばかりです。
リンゴの木の下で

ダイナ  ディック・ミネ (昭和九年)

THE WORLD IS WAITING FOR THE SUNRISE (世界は日の出を待っている)

Banjo solo" The World Is Waiting For The Sunrise"by Ken Aoki

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 昨日の「荒木一郎」で思ったのですが、
 バンジョーとクラリネット、それに金管のブラスって、ジャズの定番の一つのように思うし、感傷的な雰囲気をものすごく感じさせてくれると思います。
 とくにミュージシャンの方などに教えてほしいと思うのですが、こういう楽器の組み合わせでお薦めの曲があったら、ぜひ、お知らせください。
 「今日の一曲」でもどんどん紹介していきたいと思います。
 よろしくお願いします。
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 秋の夜長の虫の声はだんだんと聞こえなくなって、星空を慈しむ冬へと近づいてきたように思います。まだ、少し、気が早いとは思いますが・・・。
 星空というと、やはり、リゾート地での夏の夜空と、田舎暮らしの生活の中で味わう冬の夜空でしょう。冬のシンシンと底冷えのする快晴の夜空ほど冷たい光の寂寥感と宇宙の無限の奥行きが沁みてきます。

 で、なぜか思い出したのが荒木一郎でした。スキャンダルで芸能界から干されたものの、実は「えん罪」なのに何の弁明もしなかったためらしいと言われています。なので、その後は名誉回復しているようです。
 日本ではヤクザ映画の定番だったサングラスをアメリカやヨーロッパのオシャレを感じさせるようにカッコいいイメージに変えた人だとも思います。

荒木一郎 空に星があるように

君に捧げるほろ苦いブルース

今夜は踊ろう/荒木一郎

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 「けんちん汁作ったから、取りに来る? もうすぐお客さん来ちゃうし」との社長の電話で、急いで事務所に料理を受け取りに行って、自分の作業場兼住居で食したのが昨日。
 今日は、お返しに「おでんのようなもの」を作って借りた器に入れて持って行きました。ゆうべのうちに作り始め、一晩味をしみ込ませてから温め直して持って行きました。ときどき作る“オトコ料理”にビックリしたり、喜んでくれてます。

 「おでんのようなもの」というのは、おでんのようでもありながらおでんの定番材料はあまり使っていない煮物だからです。

 作り方(二人分)は、
 たまご2個と、これと同じか一回り小さいくらいのジャガイモ2個を皮のまま一緒にゆでてから冷まし、たまごの殻とじゃがいもの皮をむいておきます。
 ちょっと大きめの片手なべにゆでたまごと皮をむいたジャガイモを入れ、
 これにダイコンを大きめに円筒に切って縦に半分に切り、ニンジンを乱切りにし、シイタケと長ネギを適量加え、
 あとは、厚揚げを切って入れます。
 たまご、ジャガイモ、ダイコン、厚揚げは、だいたい同じくらいの大きさです。

 味付けに使ったのは、「なっとうのタレ」12袋とコーヒーなどに使うスティックシュガー(3g)1つ。

 これを全部いっしょくたにしてヒタヒタになる程度の水を入れて、(超)弱火で30分くらいグツグツ煮立てるだけで出来上がりです。これを一晩くらい置いておくとダイコンにもよく味が浸みて柔らかくなっています。
 食べる前に温め直せば作りたてのようになります。

 ところで、味付けの「なっとうのタレ」ですが、
 わたしは納豆は好きなのですが、一緒に入っているあの「タレ」が好みの味ではなく、いつも、醤油を使っています。そのため、「タレ」だけがどんどんたまり、1ヵ月もすると何十袋もたまってしまいます。
 「タレ」の中身はメーカーによって隠し味も含まれているのかもしれませんが、だいたい、出汁にしょうゆとみりんを加えたもののようです。ですから、これをまとめて使えば煮物に使えるのではないかと思い、初めて試してみたのが肉じゃがでした。
 最初は使った「タレ」の袋が多すぎてかなり濃い味になってしまいましたが、それでも、なんとかなりそうだということで袋の数を減らしながら、また、その過程で、砂糖も使ってみるようになりました。砂糖も普段は使いませんので、テイクアウトのコーヒーについてきたスティックシュガーを使っています。(これもまた、使いみちがなくて、ずいぶん余っています。)
 なので、最近は、煮物と言えば、「なっとうのタレ」とスティックシュガーが大活躍しています。「タレ」は、いろいろと違うメーカーの納豆の「タレ」が混ざっている方が“絶妙な”味のバランスが出るようです。
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橋下ファシズムの“君が代条例”

 以前、こういう記事で橋下・大阪維新の会を批判しましたが、その後、この「橋下ファシズム」という指摘は多くの人が共通に感じていることが浮かび上がり、「ハシズム」という言葉まで生まれるようになっています。

 今日の午前2時に橋下は府知事の辞職願を提出し、これによって、彼は大阪市長選への立候補の動きを本格化させることになりました。
 ややこしいようですが、報道では橋下の「大阪都」構想を実現するために最も反対の強い大阪市に直接乗り込んで反対勢力の一掃を狙う、というのです。
 「大阪都」構想というのは、大阪を東京のように特別区と市町村での構成に再編することで、大阪府と大阪市との二重行政を解消してトップ・ダウンの行政をやりやすくしようという狙いです。東京23区のように特別区に再編したいと考えているのは大阪市と堺市で、この両市を特別区に細分化しようというわけです。

 これに対する批判の主なものは、
 ・ わざわざ府知事を辞職して大阪市長になろうと目論むのは身勝手。(任期途中で投げ出すやり方は府民の信任をもてあそぶ態度。)
 ・ 地方行政の制度をいじることばかり考えていて、地元市民の生活不在になっている。(やるべきことはもっと他にあるはず。)
 ・ 改革を言うなら現行制度のもとでも十分可能。(府と市との対立とか齟齬は府知事自身のコミュニケーション不足の問題)
などです。

 こうした批判からも見られるように、結局のところ、今回の辞職と市長選への立候補の動きは、 「オレに反対する奴は締め出してやる」というのが橋下の発想だということが浮かび上がってきます。
 やればできる、夢をあきらめないで、と、目標に向かってまい進することは一つの美徳とされますが、それが身勝手な行為であるならば非難されてしかるべきでしょう。橋下の態度を情熱家の全力疾走と称賛するのか、ファシストの身勝手な態度だと批判するのか、それは、これからの市長選にかかってきます。わたし自身は彼のようなファシストの敗北を願うのみです。

 ところで、前代未聞の“君が代条例”という暴挙については、冒頭に引いた記事で触れていますが、「愛国心」や「君が代・日の丸」について補足的に触れておきたいと思います。
 ほかの機会にも書いたことがありますが、「愛国心」というのは、家族や故郷に愛着や安心を感じるのと同じように日本人であることに感じる一般的な心情だと思います。日常の市民感覚から普通に湧いてくる感情としてはスポーツや文化・芸能あるいは科学技術の成果としての日本企業の国際的な成功・活躍に接して感じる誇りとか高揚感でしょう。
 しかし問題は、そういう素朴な“ふるさと感覚”に乗じて、権力による「お国のために血を流せ」的な強制となってしまうことにあります。権力者が国民に向かって「愛国心」を押しつけ始めたとき、日本では昔「治安維持法」となり、USAでは今「米国愛国者法」となりました。これによって、権力に対して批判的な者を排除しようとし始め、市民同士をいがみ合わせる「非国民」づくりへと向かうことになります。仕事や隣近所の付き合いなどの人間関係が壊れると生活の不安を余儀なくされる人々は、おのずと萎縮していくこととなり、権力に服従する「愛国者」であると言わされるようになっていきます。
 君が代とか日の丸への服従を強制しようとするのは、そういう、「非国民」づくりの踏み絵になるものとしての強制なのです。「秩序を守る」という口実のもとに、いろいろな考えの人がいていいはずの思想的自由、市民的な自由の根源とも言える自由に対して脅しをかけ、抑圧して行こうという強制なのです。
(だからこそ、日本の最も保守的な思想界を代表する最高裁判所でさえも、「君が代・日の丸裁判」には、長い間見解を表明することができず、敢えて今年相次いだ判決でも、長々と但し書きをつけたり、反対意見の裁判官もいたのでした。権力による強制の乱用を恐れ全体主義への退行を恐れたからにほかなりません。)

 この乱暴な権力的愛国心に最も心酔しているのは、実は、女性に多いことも最近の日本の特徴の一つだと思っています。おそらく皇室への心酔と似通っていると思うのですが、国会では丸川珠代、山谷えり子などの国粋主義丸出しの議論は目に余るものがあります。ジャーナリストと称している論客には櫻井良子もいます。わたしにしてみれば、こんなデマゴーグ(デマを振りまく者ども)など唾棄すべき者どもだと思っているのですが、櫻井良子などは特に女性ファンが多く、その見栄えにごまかされずに「言論の中身をよく吟味してごらん」と言いたくなります。
 特にこの点では、大日本帝国による15年戦争(日華事変から太平洋戦争敗戦まで)の総括も絡んできます。つまり、あれは日本にとってはやむにやまれず戦った聖戦だったと開き直る態度です。よその国を植民地にしたり戦場として無辜の老若男女を殺戮しておいて聖戦とはふざけた話です。日本の帝国主義が侵略者だったことを真摯に総括することこそが必要でしょう。そのうえで、これを教訓とするからこその平和国家として帝国主義との決別を鮮明にすることこそが大切だと思っています。わたしは、ですから、帝国主義時代を懐かしむような議論は絶対に受け入れることはできません。あんな他国民蔑視・国内での女性蔑視の時代を懐かしむのではなく、いかに潔くふるまうか、それが、大事だと思っています。

 「愛国心」を唱え「日の丸・君が代」への敬服を強いる者どもに対しては、最も警戒せよ、全体主義=ファシズムに警戒せよ、そう言い続けたいと思っています。
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 このところ、がちんガチンに固い話ばかりで少々肩が凝ったようにも思いますので、今日は気分転換にシューベルトを選んでみました。
 シューベルトもまた短命な作曲家の一人でしたが、民話から題材をとったり、田舎の光景や暮らしを愛する曲が多かった人で、今でいう「癒される」曲をたくさん作った人だと思います。そんな中から今日は3曲だけピックアップです。

Schubert Ständchen (Serenade) Peter Schreier


Schubert Heidenröslein Peter Schreier


The Erlking


Schubert "Serenade"

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 今日からの臨時国会を前にニュースで流れるようになった話題の一つに選挙制度改革があります。
 最高裁から違憲状態と指摘された“一票の格差”について、民主・自民が足並みをそろえている改革なるものについて諸政党が異議を唱えている問題です。
 同じ一人の国会議員を選出するのに最も少ない票数で当選できる議員に比べて5倍以上の得票がなければ当選できない状態があるのは平等原則に反するのですから、選挙制度の改革が必要なことは言うまでもないと思います。問題は、その改革の中身です。
 民主党は「まず格差の解消のための選挙区の見直しから」といい、自民党もこれに同調しています。
 これに対して他の野党は、そういう小手先の問題ではなくて「選挙制度そのものの抜本改革を」と求め、とくに、民主・自民が比例代表選出の議員を減らそうとしていることに真っ向から反対しているのをはじめ、中選挙区制度の復活を求める政党も現れています。
 民主・自民は、実際の得票率よりもはるかに多い議席を獲得できる小選挙区制度に味をしめているため、これを維持するというかドサクサ紛れに一層の強化を目指しているわけですが、もともと自民党にいた頃はこの中心的な推進勢力だった「たちあがれニッポン」などは、「今思うと大失敗だった」と小選挙区制の撤廃を今さらながらに求めているほか、共産党や社民党などはもともと大反対でした。また、公明党は民・自両党との対決は避けたいものの今の制度では不利だと考えて中選挙区制の一部復活を主張しているわけです。

 “一票の格差”を緩和するための選挙区割りの是正が先決なのか、小選挙区制の撤廃をはじめとした抜本改革が先なのか、国民的な議論など不在のうちに、いつの間にか重大なことが決められようとしています。

 例えば、今、騒ぎになっている九州電力の態度に見られるように、当事者による自浄能力というのは、ほとんど期待できないと思います。
 東京電力による福島原発事故の対応も呆れることの積み重ねですが、
 九電の問題は、佐賀県での原発建設に関して説明会とか公聴会に向けての「やらせメール」や会場での「さくら発言」が会社ぐるみで行なわれた問題でした。そのために、九電以外の構成員による第三者委員会を設けて事実調査と問題点指摘や改善提案を求めたはずなのに、事実上これをないがしろにする内容の「報告書」を経済産業省に提出したために、非常識だと非難されている問題です。(とくに佐賀県知事の発言が「やらせメール」の誘因だったとされたことから、政治問題に発展することを恐れて、九電は第三者委員会の指摘を握りつぶそうとしたことが問題になりました。)
 ついでに例えば、いま、大王製紙の創業者一族の問題も騒ぎになっています。使途不明の個人的な借り入れを繰り返したとして創業者一族出身の会長が解任された事件です。100億円を超える借入をし、そのうち半分近くは使途不明のままという背任行為で解任されたうえ刑事告発に至り検察が動き始めた事件ですが、実は、創業者一族は問題が会社に発覚する半年前の今年3月のうちには事実を把握していながら会社に報告せず隠ぺいしようとした、という経緯が浮上してきました。(この解任された会長というのは、まだ若い人物ですが、言ってみればドラ息子で、ギャンブル狂いだったようです。投機的な金融取引の失敗とラスベガスでのギャンブルの挙句にこんな金額に積み上がってしまったらしいのです。)
 こんな事例に象徴されるような日本のトップ・モラルなのですが、こういう経済界と同じ穴のムジナの民主党や自民党の国会議員だけは、高いモラルを掲げ、世のため人のため、民主的な日本の建設のために邁進(まいしん)する政治集団だと、思えるでしょうか。
 ということを踏まえてみれば、国会議員が自らの選挙に関わる問題で自浄能力を発揮するなどと思うのは幻想でしょう。とくに財界直結の民主・自民が多数を握る国会であればなおさらです。それに、一般論としても、権力の座にある与党とそれに接近している二大政党では、選挙制度改革と称して「アンフェア」に自らに優位な制度を作りたがるのは十分にありうることです。

 結論から言えば、彼らが狙うのは、小選挙区制の比重の拡大です。
 前回の衆院選では民主党が30%台後半の得票率で議席の60%を占め、そのために30%台前半の得票率だった自民党は30%の議席にとどまり、ほかの政党は合わせて30%の得票率で10%の議席に後退させられてしまいました。
 元・民主党代表で、管内閣の時には幹事長だった岡田などは「これが小選挙区制のすごいところです。この制度のおかげで政権交代が現実のものになったのですから」と、この制度を絶賛しています。
 冗談ではありません。大政党だけが優位な地位を占める小選挙区制度など、民主主義に最も反した制度です。民主的なふりをしながら全体主義を蔓延させるような制度でしかありません。これこそが、権力者とその近い勢力によるファシズムの始まりです。

 ところで、選挙制度の改革の以前に議員定数削減の話題も時折顔を見せます。国会議員が多すぎるし、それぞれの議員歳費(議員の収入)も多すぎる、と。それで民主党は「比例代表議員80議席を削減」という案を掲げていました。
 これに対して日曜日に放送しているNHKの国会討論で、共産党は「そんなことをしたらますます民意が反映されなくなる」としたうえで、「議員80人を減らして節約できる金額はいくらだと思います?年間でせいぜい50億~60億円ですよ。それよりも、憲法違反の政党助成金(政党交付金)320億円を即刻廃止すべきじゃないんですか?」と指摘しました。また、この政党助成金について各党の見解を求めるとも発言したのですが、これに触れた政党は一つもなく、番組の最後の発言で「どこの党からも政党助成金について発言がなかったのは残念ですが、国民の皆さんには各党がどういうスタンスに立っているのかよく分かったと思います」と締めくくっていました。

 国会議員からムダをはぶけ、隗(かい)より始めよ、とは、実は、民主党や「みんなの党」などの保守政党が言い始めたことです。それは、実は、議員定数を削減することによって、比例代表部分を大幅に削減する狙いを持っていました。裏を返せば、小選挙区制への一層の偏重を進めることによって、大政党優位の仕組みをがっちりと固めてしまおうという目論見なのです。
 選挙にカネがかかり過ぎて金権政治が横行してきたから、というご都合主義の名目で導入したのが政党助成金でした。年間300億円を超える金額を各党でお手盛りでわけあってしまう制度です。共産党だけがこの助成金を憲法違反だとして受け取っていません。政治家が衿を正すなら、企業献金、団体献金を全面禁止にして、個人の寄付を地道に募ることによってこそ、大衆的に支持される政治活動となるはずです。企業献金も団体献金も間違いなくそれぞれの企業・団体のための利益誘導の狙いを持っているのですから。

 選挙制度改革についていえば、わたし自身はすべての議席が比例代表であるべきだと思っています。得票率に応じて議席が配分されるのであれば、議員定数を削減したとしても“一票の格差”とか小選挙区での大量の“死に票”が生まれるような不合理も解消されます。全国のどこにいても、自分の一票は必ず議席に反映されるわけですから。
 また、政治の無駄の解消については、政党助成金(政党交付金)の廃止と、企業・団体献金の全面禁止だと考えています。
 この観点に立って国会での民主・自民などの選挙制度「改革」をウォッチしていくと、彼らの狙いが浮き彫りになってくると考えています。
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 セントラル・リーグもパシフィック・リーグも今日、順位が確定したそうです。
 パリーグはこれまで3位を保っていたオリックスが今日になって西武に抜かれて4位に転落し、クライマックス・シリーズへの進出の権利を失いました。岡田監督はじめオリックス関係者にとっては悔やんでも悔やみきれない一日になったと思います。
 今年のプロ野球は、セリーグでは長い間首位に立っていたヤクルトが終盤になって中日に抜かれたり、今日のオリックスの4位転落だったり、順位が目まぐるしく変わって接戦続きだったように思います。ファンにとってはそれだけエキサイトできる楽しい一年だったのではないでしょうか。
 わたし自身は、楽天の活躍を期待したのですが、春の頃に触れたように、星野監督の熱血ぶりは、やはり、カラ回りで終わったようです。ただ、投手の田中将大の成長ぶりは目覚ましく、彼の活躍だけは、とても、満足でした。

 ところで、中日は落合監督との契約は更新せず、手放すことにしています。監督という仕事は70代くらいまで続けた人が多いのですから、落合監督はまだあと15年くらいは仕事ができる年齢だと思います。来年の監督人事についてはどこの球団ももう決まっているようですから、1年くらいは休養するとしても、またどこかの球団で指揮をとってほしいと思っています。原監督ではいつまでたっても「常勝巨人」は復活できないようですから、ジャイアンツの監督にでもなったら、大騒ぎになるでしょう。
 ジャイアンツと言えば、今年のルーキー、沢村投手が結婚を決めましたね。日本テレビの森麻季アナウンサーとの結婚だそうです。今年の新人選手の中では最も活躍した一人だし、テレビ局のアナウンサーとの結婚、それも姉さん女房、というのも、スター選手のテッパンですね。沢村投手もまた、大物選手に育って行きそうな雰囲気を感じます。
 同じくルーキーの斉藤祐樹(日本ハム)は、やはり、プロとしてやっていくには少々厳しいかなと思いました。球団は大事に大事に使おうとしているようですが、お客さんを呼べるうちはいいとしても、その集客力が落ちればたぶん、戦力外ということになっていくのではないかと思います。ただ、バッターとの駆け引き上手なピッチャーとして育って行くようであれば、それなりの戦績を積み上げることはできるかもしれませんので、まだ、未知数の一人、ということにしておきたいと思います。
 斉藤と田中については、高校野球の決勝戦で、勝った斉藤が涙をこらえきれず、負けた田中がにこやかにほほ笑んだことが大きな話題となったことを思い出します。その頃から、ハンカチ王子よりも大物になりそうだなぁとか、この愛嬌のある表情がいいなぁとか、マークンにシンパシーを感じていました。

 さて、これからは、セ・パ両リーグとも上位3チームによるクライマックス・シリーズ、そののちに両リーグのトップ同士の日本シリーズです。今年はどんなドラマが生まれるのか、楽しみたいと思います。
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 ちょっと古くて何ヵ月か前の話ですが、「天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」という見解を表明したことで大きな物議をかもした人がいました。また、「宇宙誕生に神は不要」といった持論などで宗教界から敵視されている人です。
 無名の一般人の発言であれば、わざわざ宗教界が反発するわけもなく、この発言は、世界的に著名な理論物理学者、ホーキング博士のものです。あの、筋委縮症で車椅子生活の姿で知られる大学者です。

 わたし自身は、ホーキング博士の考え方を支持するものです。

 19世紀のドイツ哲学はヘーゲルの弁証法哲学で一つの頂点を迎えました。しかし、その一方で西洋哲学にとって何世紀にもわたる難問だった「神の存在証明」(神の存在をどうやって証明するか)については、彼の弁証法による論理的な組み立てでも成功できなかった中、フォイエルバッハが『キリスト教の本質』を著して、神とは人間が人間に似せて創りだした産物であって存在などしないと唯物論(ゆいぶつろん)哲学の立場を表明し、これが、青年ヘーゲル学派の若い哲学者たちに熱狂的に支持され、そんな中からカール・マルクスが、唯物論的世界観と弁証法的思考方法とに基づいた弁証法的唯物論という哲学へと結実させたのでした。(また、「神は死んだ」などの発言で知られるニーチェに代表されるような観念論哲学として実存主義もこの時代から生まれ始めました。)
 マルクスは『資本論』があまりに有名なため、経済学者と評されることもありますが、経済学の学位を取ったことはなく、彼が学位を持っていたのは、哲学博士です。ドイツから追放されたのちに過ごしたロンドンで、彼は、哲学だけでは労働者階級の解放のための理論的基礎としては十分な説得力を持たないと大英図書館に通いつめて研究に没頭したのが経済学で、その成果が「経済学批判」という著作となり、さらに集大成としての『資本論』となったのでした。彼自身は第1巻を刊行したのみで、没後、第2巻と第3巻、さらに第4巻とも称される『剰余価値学説史』は、盟友だったフリードリヒ・エンゲルスがマルクスの遺稿を編集してマルクスの名で刊行したのでした。

 19世紀後半以来の共産主義運動の理論的基礎を築いたマルクスとエンゲルスに言及したのは、ほかでもない、この唯物論哲学について触れたかったからです。というのも、反共主義者(共産主義に敵意を持つ諸々の思想)が意図的に宣伝するのが「共産主義者が掲げる唯物論哲学とはヒトを物扱いする悪魔の哲学」という悪意のデマであり、日本のような反共勢力の悪影響の根強い国々では、素朴にそう思い込んでいる人も少なくないからです。

 しかし実は、ギリシャ古典哲学が唯物論哲学の百花繚乱時代だったことをはじめ、唯物論とは観念論との対比で語られる世界観の代表的見解にほかなりません。つまり、この世界は人間の観念に依存して成り立っているのか(観念論)、それとは独立して客観的に存在しているのか(唯物論)という両極の一方の側の立場なのです。
 観念論を代表するのがソクラテスからプラトン、アリストテレスに至るイデー(想念)からメタフィズィク(形而上学=形を超えたものの学問)へという流れでした。その一方で、デモクリトス、エピクロスといった人々の唯物論も華やかだったのです。特にエピクロスの掲げた原子論についての研究は近世に至るまで大きな哲学的テーマでした。
 単子論(モナド論)で知られるライプニッツなどは、自身の科学的世界観の研究の結果、こういうエピクロスの原子論のような考え方は神への敬虔さを揺るがしかねないと、おどおどしていました。また、観念論の巨頭の一人のカントもまた、人間には「先験的統覚」という時間・空間の感覚が生まれながらに(=先験的に)身についているのだ、と観念論の立場を説明しようとしたものの、自然界などの客観的な事象との人間のかかわりについては「不可知論」(観念の働きによって成り立っていると説明されるはずの世界と現実世界とが一致するとは言い切れず、とどのつまり、客観的な世界については人間は知りようがない)という曖昧な見解に逃げ込むこととなりました。
 観念論の流れは、目の前の現実はあらかじめイデーによって用意されていたもので、それを経験を通じて認識しているにすぎないのだ、と、人間の精神の中に世界の根源を求め、神秘的な現象などを通じて神への依存とか神との葛藤など、神とのかかわりを深めていくようになります。これに対して唯物論の流れは、この現実世界を構成する元素を突き詰めようとしていく原子論の流れへと突き進むことになりました。
 かなり荒っぽい言い方ですが、観念論は宗教と結びついていくこととなり、唯物論は科学と結びついていくこととなった、というふうに考えることができます。

 こういう歴史の流れを踏まえて考えてみると、例えばニュートンが万有引力の法則を解明し、エネルギー保存の法則など物理学の基礎を築いたものの、「では最初の運動はどこから生じたのか」という問いに対して「神の一撃」と言わざるを得なかったように、解明できずにいた問題に対しては「神」を持ち出すしかなかったのですが、その限界を時代の進展とともに乗り越えようとしてきたのが唯物論的な世界観でした。これは、今でも、宇宙の創成とされる「ビッグバン」についても、これこそが神の一撃だという人もいれば、そこで科学的探究を諦めない人もいることと似ています。
 「神」を持ちだすことで、そこから先の科学的探究を諦めるのが観念論であって、今の時代には説明がつかないかもしれないけれども、どこまでも探求を続けようというのが唯物論である、という態度の違いになって表れています。

 冒頭に挙げたホーキング博士の発言とは、つまり、こういう唯物論的立場のことなのです。
 日本の共産党が1970年代頃から「マルクス・レーニン主義」という呼称をやめて「科学的社会主義」という言い方にしたのもまた、こうした歴史的背景を踏まえてのことでした。

 70年代に学生だった頃、分析哲学で日本の大家の一人だった中村秀吉先生が講義の中で「ま、レーニンという人は政治家でしたから哲学文献に関しては荒っぽい断定も少なくありませんが、それでも、世界観については彼の『唯物論と経験批判論』は、認めざるを得ないでしょうな」と、語っていたことが今でも印象に残っています。
(分析哲学というのは、論理学を発展させたもので、世界観について論理式を用いて説明しようとした学問。数学の授業で目にしたようなandとかor、または、notなどの式を使ってTrueとFalseを振り分けながら、集合の論理を組み立てて行く方法で、今のコンピュータ・プログラミングを思い浮かべるような思考方法です。)
 マルクスをはじめとした弁証法的唯物論、あるいは弁証法的史的唯物論については、フリードリヒ・エンゲルスの『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』(=通称『反デューリング論』)とウラジーミル・イリイッチ・レーニンの『唯物論と経験批判論』が代表的な著作だと思います。また、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』は、とくに、歴史観(=歴史の見方)について、史的唯物論の代表作と言えるでしょう。

 というわけで、さて、自分が死んだら墓に入りたいかと言えば、まったく思っていません。できれば最近流行り始めている自然葬にしてもらいたいと思っています。チベットのように山で鳥に喰わせる鳥葬でも構わないし、川や海に流す散骨でもいいし、自分のかけらなど雲散霧消させて、自然に返してもらっていいと思っています。親族が墓に入れたければ、それで気が済むなら入れられちゃっても構わない。献体で解剖の教材にされても構わない。死んだ後のことなど、わたしには分からないことですから。
 永遠の眠りとはよく言ったもので、たぶん、自分の死というのは、二度と目を覚まさない眠りのようなものだろうと思っています。来世があるとは、わたしも、思ってはいません。あのホーキング博士のように。
 なので、この世の生は、思う存分生きたいというふうに思うわけです。好きなように生き、好きなようにものを言いたいわけです。だから、まあ、不当な権力に対して闘いたいとも思うわけです。

 大正デモクラシーの後、日本が軍国主義に走り始める兆しが見え始めた頃、芥川龍之介は、何となく嫌な空気を感じ始めた、という理由で自殺してしまいました。世の中が言いたいことも言えないような重苦しい雰囲気を感じ始めた頃、自殺が流行し、心霊現象が流行しました。今の日本もまた、そういう空気と似通った現象に流れ始めている気がしています。太平洋戦争での日本の態度を正当化する者が増えたり、ハシズム(=大阪維新の会のファシズム)が台頭したり、パワースポット・ブームだったり、いやーな空気です。
 だから、それゆえに、唯物論を語りたいと思った次第です。ホーキング博士の見解に耳を傾けてほしいと思った次第です。
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 資本主義大国の各地に飛び火した反格差デモは、10月15日の統一した行動日のデモとなり、そのニュースが入り始めました。

 こうした中、東京でも日比谷公園、六本木などで「東京を占拠せよ/Occupy TOKYO」というデモが行われたようです。

 USA、ヨーロッパ各国の多くの場合、数千人から数万人規模で集会やデモが開かれており、東京の200人、ソウルの600人とは規模の違いが目立っています。また、東京のデモの場合は参加者の主張の内容は、経済格差の問題から原発問題など、バラつきが目立ったのも特徴とされています。

 USA、ヨーロッパ各国に共通しているのは、経済危機と財政危機への政府の対応に対する不満の矛先が政府、金融機関と富裕層に向けられていることで、「(マネーゲームをしてきた)銀行に鎮痛剤(=公的資金投入)はもういらない、彼らに安楽死を」とか「富裕層に増税を」など、要求内容が明確です。
 それだけに日本の「統一行動」は、意思統一に欠け、準備不足は否めないでしょう。また、主催者の一部のサイトを見ると「世界革命」の文字や昔ながらの学生運動のようなトロ(=トロツキスト)のヘルメット姿の写真なども見られます。たぶん、4トロ(ヨントロ=第4インターナショナル)が呼びかけた便乗的な動きのように見えます。
 実際、ローマのデモでは内務省ビルに火炎瓶が投げつけられるなどの騒乱状態も生まれ、平和的なデモが(過激派に)「乗っ取られた」という声もあがったようです。

 このデモや集会はTwitterやFacebookを通じて世界的に「連帯」も生まれはじめ、お互いの激励などが紹介されたりしています。そんな中からglobalrevolutionという言葉も散見されるようになったようです。

 「世界革命」とか「世界同時革命」というのは、トロツキーの有名な主張です。
 トロツキーはロシア革命の際、人民軍である「赤軍」を創設した人物で、レーニン死後は、スターリンとの権力闘争に敗れ、最後は亡命先のメキシコで暗殺されてしまうのですが、その彼が創設したのが第4インターナショナルでした。
 このトロツキズムの運動は1970年代頃までには資本主義大国では泡沫勢力と化していますが、今でも、オーストラリアなどでは有力な政治勢力として活動しています。また、ブッシュ大統領の時代に台頭した「ネオ・コン」(=ネオ・コンサバティブ=新保守)のブレーンが元トロツキストたちだったとも言われたほど、思想的には大きな変節を重ねた勢力も見られます。
 学生時代には、このトロツキーの「永世革命論」とか「世界同時革命論」をどうやって論破するかと議論したりレーニンなどの古典や論文を読みあさったりしたものですが、やがて、日本の4トロも次第に姿を見なくなり、何かの政治的運動が盛り上がる度に便乗的に顔を出してくる程度の泡沫勢力となっていったように思います。

 日本や韓国の場合、この日の行動が大衆的な盛り上がりに欠けたのは、怒りや要求を突きつける相手が明確になっていないからだと思います。9月の反原発集会が6万人の規模となったのと対照的なことが、今の一般的な心理とか感情の違いを反映していると思います。準備不足だと言うにしても、参加人数はあまりに少なすぎると思いました。

 不安定雇用層や不安定な身分になり始めている中間管理職など、今まで労働組合に結集できていなかった人々の組合が広がり始めた一方、その一部は連合のような御用組合を上部団体に持つ人々もいます。何年か前の連合の大会で「○○ユニオン」系のこうした人々の要求を反映して役員選挙で騒ぎが起こった(○○ユニオン系の人が役員に立候補して予想外の善戦をした)ほど大企業正社員クラブの連合も、不安定雇用層の対策を口にせざるを得なくなりましたが、それでも、デモとかストライキとか集会さえも絶対にやろうとはしていません。
 そういう連合のことを「労働組合」だと思っている幻想が残っている限り、欧米のような“We are 99%”とか「富裕層に増税を!」といった運動を広げるのは厳しいだろうと思います。

 法人税(=法人所得税)の増税、株式譲渡益課税の特例の撤廃、個人所得には日本版バフェット・ルールを、といった「富の分配」をめぐる要求と消費税増税に対する反対運動など、今月前半に取り上げたような話題に沿った大衆的な要求が盛り上がっていく必要があるでしょう。
 「自己責任論」がやたらにふりまかれたり「小さな幸せ」幻想などが蔓延した中、働く者の団結と連帯のノウハウは60年代70年代に比べて大幅に後退させられている今の日本では、政治的要求・経済的要求の運動は、根気強くジワジワと広げるところから始めないとうまくいかないように思います。
 かつて、「安保は重い」と、なかなか運動が盛り上がらなかった60年安保反対運動が、中小企業や商店街まで巻き込んだゼネスト(=ゼネラル・ストライキ)規模にまで発展した例とか、さまざまな市民運動として広がった60年代後半からのベトナム反戦運動、あるいは、労働運動だけでなく中小企業のいくつもの団体までが参加した80年代の売上税(今の消費税)導入反対運動など国民的な運動となった例もあります。

 わたし自身は、怒りの矛先が民主党政府と経団連に収斂(しゅうれん)していく流れこそが求められていると思っています。たぶん、TPPなどのFTA(フリー・トレード・アグリーメント=自由貿易協定)問題がもっと身近に感じられるのに従って、そういう空気は高まっていくように思いますし、その時に国内でも欧米の大衆運動への共感も広がるだろう、と思っています。

 ところで、欧米のデモの連鎖を見て、「世界革命」だのと小躍りする跳ねっ返りぶりが急進勢力と呼ばれるせっかちで主観的な「過激派」の悪い癖だと思っています。生活に根付いた大衆的な支持基盤を確立して大衆的な要求を明確にまとめ上げていく努力こそが必要でしょう。一発屋的な単なる「宣伝・煽動」など、一般的な知的水準が高くアタマの中が複雑な人々が右から左までさまざまな方を向いて溢れている「先進国」ではそう簡単に通じるものではないのですから。
 だからこそ、右から左までいろんな人がいることにイラだって、あのハシズムのように、強権的な暴力的な主張が生まれてくるのですから。 (ハシズム=橋下徹の「大阪維新の会」が軍隊的な主張を掲げていて、これがファシスト的だとしてハシズムという呼び方をする人たちが増えています。)
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