kyottides的 喜怒哀楽 -14ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 NHKの朝のドラマ「カーネーション」の主役を演じている尾野真千子は、アラサーの人ですが、女学生時代も見事に演じきって、実年齢に近い年頃の演技へと向かいつつあります。
 彼女の演じた映画やドラマは、今回のようなコミカルな演技は珍しく、むしろ、シリアスな内容のものが多いようです。そんな中で興味を感じたひとつは、「全裸でのオナニー」シーンという話でした。
 そのシーンが描かれているのは、真幸くあらばという映画です。読み方は「まきくあらば」。敬虔なキリスト教徒の彼女が、自分の婚約者を殺害した罪で死刑を宣告された男との間に恋愛感情を抱く、という物語です。その男が殺害した婚約者は彼女とは別の女性との浮気中に殺害されたもので、彼女は、婚約者への失望の一方で、殺害犯人であるその男に面会を求め、何度も会いに行くうちにお互いが恋に落ちる、というものです。しかし、牢獄の内と外の間柄であって、触れ合うこともできない。ということで、ある日、お互いが同じ時間にお互いを思いながらオナニーをすることにした、という話です。
 だから、この場面は、その映画にとってはクライマックスでもあったわけです。

 さて、オナニーについて。
 これを「自慰」と翻訳して、それまでの「手淫」とされていた、後ろめたい不健全な行為だという印象を振り払おうと努めた人が、山本宣治でした。戦前、京都の選挙区から国会議員に当選した労働者農民政党の代議士で、映画『武器なき戦い』で描かれているように、議会で治安維持法の制定に反対したために、右翼に暗殺された戦前の日本の共産党員でした。(共産党員として登録されたのは彼の死後、遺族の意向も踏まえてのことでした。)
 もともと生物学者だったヤマセンは、教員時代には生殖について大いに真面目に講義したために、生徒たちから「スケベ先生」と呼ばれたくらいに、オシベ・メシベの話を熱く語った人でした。
 その彼が問題視したのがオナニーのことで、それまでは、世の中では淫らで不健全な行為だとされていて、オナニーをしてしまう青年たちが後ろめたい思いをすることに対して、決して恥じることはない、健全な行為なのだと、論陣を張ったのでした。それで「手淫」という言葉に対して「自慰」という言葉を対峙させ、その普及に努めたのでした。

 オナニー(マスターベーション)という行為が「自ら慰める」行為なのだということで、どれだけ多くの少年たち、青年たち、または、オジサン達が、救われた気分になったか、と思うと、ヤマセンが後世に与えた影響は大きなものがあると思います。

 オナニーについては、だいたいの場合、男子の抑えがたい性欲の問題のように言われると思いますが、女子にもそういう欲求があってもおかしくないと思うし、まあ、言ってみれば、ヤマセンが唱えたように、誰にとっても健全な行為には違いない、と思うことで、別に悪いことじゃない、と、気持ちは救われると思います。

 共産主義者が世の中にインパクトを与えてきたのは、文化・学問など、世間の旧来の常識に対して異論反論を提起することで、「待てよ。なんか、もっともな言い分だな。ちょっと考えてみようかな」と思う人々を広げてきたことにあります。
 マルクスの口癖だったように「万物は疑うに値する」という精神で、世の中に衝撃を与えるような文化・学問を提供してきたのが共産主義者だろうと思っています。
 この点では、最近は、少々不作続きかもしれません。映画『二十四の瞳』とか『戦争と人間』など、大きな反響を巻き起こした共産主義者による作品も、最近はずいぶん少なくなったように思います。

真幸くあらば

山本宣治の制教育論

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 テレビドラマにしても劇場映画にしても、基本は同じだと思います。つまり、脚本、演出、演技の三拍子によって面白さが決まると思うのです。
 ストーリーが巧みな脚本で組み立てられていれば楽しみです。話の展開の意外性とか、緩急の付け方、あるいは続きを見たくなる終わり方など、脚本家の手腕というのは、作家としての構想力によって選び抜かれて行くのだろうと思います。
 その脚本の面白さを映像化するのが撮影監督をはじめとした演出陣の力でしょう。脚本通りではないアドリブも容認できるかどうかは、演出陣と脚本家との相互の理解の深さに関わってくると思います。(脚本家の意図の理解が深いほどお互いの信頼感のもとで演出家のアドリブも生かされやすいようです。)

 そのうえで、やっぱり、と思うのは、出演者の演技力が全体の出来を左右していると思います。演技する俳優・女優の力量がさすがだと思うのは、そういう脚本、演出を受けとめて、みごとに作中の人物になりきる力量であるとも思うし、単に理解しただけではなく、脚本や演出を超えた演技力が見せ場になると思うのです。
 つまり、演じる人々は、脚本の意図も演出の狙いもすべて呑み込んだうえで、その人らしい演技を演じるのですから、出演者の力量は、ドラマ、映画のすべてを左右することになるとも思うわけです。

 朝の連続ドラマでいえば、
 「ゲゲゲの女房」のあと、「てっぱん」「おひさま」「カーネーション」と続いていますが、これらの中では、演技陣の力量を感じたのが「てっぱん」と「カーネーション」です。

 「てっぱん」の主役を演じた瀧本美織も精一杯の頑張りが滲み出ていて素晴らしい女優さんに育っていくだろうと思いましたが、このドラマでは、両親役の安田成美、遠藤憲一をはじめ、周りの出演者の力量の高さをすごく感じました。それがドラマ全体を面白くしていたと思います。

 いま放送中の「カーネーション」もやっばり、主役の尾野真千子の演技が素晴らしくて楽しみなのですが、それに加えて全体を盛り上げているのは周りの出演者たちだと思っています。みんな、すばらしくリアリティを感じさせてくれる演技です。
 といっても、「おひさま」的なリアリティではなくて、コメディ風の演出の上でのリアリティですから、いわばエンターテイメントとしての面白さがふんだんに盛り込まれています。
 すごい陣容です。両親が亭主関白の小林薫におとぼけの麻生祐未、おばあちゃんが「かしまし娘」の正司照枝、お母ちゃんの実家のじいさんばあさんが宝田明、十朱幸代と名優が揃っているし、そのほかにも財前直美、濱田マリ、トミーズ雅、國村隼、栗山千明など個性的な人々がズラリと並んでいます。
 これだけの役者がそろったら、それだけで、ヒット間違いなし、と思うくらいのドラマです。

 それに比べて、日曜日の大河ドラマ「江」は、はっきり言ってしまえば主役の上野樹里が全体を台無しにしている印象です。出演者の多くは、さすがプロと思う人たちなのですが、主演の彼女のほか何人かが学芸会風で、物語の盛り上がりを潰してしまっていたように思うのが率直な残念な感想です。
 話題性だけを狙った配役では、やはり、失敗するのではないか、そんなふうに思います。
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 タイ、ギリシャで起こっている事態が日本経済にとって少なからぬ影響がある、という話は、さておいて、

◆社民政党◆
 ギリシャの財政危機を救済するためにEUが突き付けた条件を呑むかどうかで、パパンドレウ首相は土壇場になって「国民投票で・・・」と、頬かむりを決め込み、ヨーロッパ経済のみならず資本主義経済大国に激震が走っています。
 このパパンドレウという人は、親子三代にわたる首相経験という家系で、本人もいくつもの大学を出た相当のインテリのようです。彼の政党は、日本の社民党と同じような社会民主主義政党で、社会主義インターナショナルの議長も務めているようです。
 共産主義者と社会主義者または社会民主主義者との違いは、前者が政治革命をめざす立場なのに対して、社会なんとか勢力は革命には及び腰で体制内の「改良」「修正」によって、資本主義社会を維持しながら貧富の格差を埋めることができると考える立場です。つまり、保守勢力の良心とか善意にすがることで一般大衆への温情も獲得できると夢見る人々です。
 日本では、民主党が保守から右派社民勢力までの野合集団となっていますが、この構成員の一部が仙谷由人などの旧社会党右派とか管直人などの社民連(社会市民連合)、あるいはもっと自民党寄りだった旧民社党(ゼンセン同盟=繊維関係の労使協調派など「連合」右派勢力)など、「社会なんとか」という具合に、労働者の味方のふりをした名前を持っていた諸君でした。(あのナチスも国家社会主義労働者統一党という労働者の味方のふりをした政党でした。)
 最近の言葉でもっと簡単に言えば「中道左派」的な勢力です。
 ただ、民主党全体としては、そうした勢力を抱え込みながらも全体としては「中道右派」と呼ぶべきで、「右派」的である分、保守政党のくくりに含めるべき政党です。

 さて、パパンドレウの率いるギリシャの社会主義政党ですが、内実が日本の社民党や民主党の旧「社会」なんとかグループと大差がないと考えると、このギリシャの騒動は、対岸の火事ではなく、他山の石とすべき問題が浮上してきます。

◆共通する無責任政権◆
 話は変わりますが、タイの大洪水は、その終息・復興が何週間どころか何カ月かかるか分からない情勢となってきました。水門の開け閉めをめぐって、北部の住民と南部の住民の利害の対立も深まっています。特に、インラック首相の政権が有効な打開策を打ち出せずにいるばかりでなく、その言動が二転三転することで国民の不信感が高まっている、というのが最近のニュースの大きな特徴です。
 ギリシャのパパンドレウ政権もまた、言うことが二転三転してフランスとドイツが「話が違うじゃないか」と、キレかかっています。パパンドレウにしてみれば、EUに突き付けられた責任の取り方が国内では政権崩壊につながりかねないという党利党略から、判断を国民に任せる、と、責任逃れに走る以外に自らの政治生命を保てないと考えたとしか言いようがないでしょう。
 自らの政権延命が判断の基準になるから、こういう「くるくる変わる政権」になってしまうわけです。リスクを負わない、責任を回避する、このことが最優先の価値基準になるために、言うこと、やることが変わってしまうのです。
 振り返ってみれば、ギリシャ国債の乱発そのものがアメリカの投資コンサルタントの口車に乗って為替相場の変動を頼りにした詐欺的な手法だったように、初めから、国内・国外全体を欺こうとしたものだったのですから、無責任ぶりの根は深いと思います。

 さて、言うこととやることが違うとか、言うことがくるくる変わるとか、やっぱり、思い浮かぶのは、明白です。

◆「安全運転」なのか?◆
 今の総理大臣の野田は、記者会見に消極的であったり、「安全運転」とも言われるように、言質(げんち)を取られまいと、発言の機会と内容を慎重に選んでいるように言われています。
 鳩山にしても管にしても、あるいはその他の民主党閣僚や党幹部には、失言・暴言が多すぎて、わずか2年余りのうちに辞職に追い込まれた人物があまりに多すぎたことが念頭にあるのかもしれません。
 しかし、それは、それぞれの人物の資質であるよりは、民主党という政党の体質に依るものだと言えます。まともな党内論議を行なうこともなく、つまり、政党としての意思統一を図るシステムがないままに、内閣の幹部、政党の幹部それぞれに、個人的な発言や、それぞれの政治グループ内だけの合意だけで発言してしまうからです。
 こういう組織なのですから、トップの野田にとっては、揚げ足を取られたり言質を取られることだけは、避けなければならないわけです。

 しかし、だからこその問題が大きくなってきました。
 野田は、内閣、党のそれぞれの幹部に発言させることで自らの狙い通りの代弁をさせ、自らは責任を免れよう、という手法なのですから。
 特に、この点で露払い、あるいは、先鋒を務めているのが政調会長の前原です。TPPについて「途中下車もできる」かのような空論を飛ばして国民を欺こうとしたり、「武器輸出(禁止)三原則の見直し」、「PKO派遣での自衛隊の武器使用の基準緩和」など、自民党でさえ言えなかった平和国家の原則のタガをはずそうという言動に出ています。このほかにも、外相の玄葉には(普天間の移転に関する)鳩山発言は誤りだったと言わせるなど、同じ民主党の過去を塗りつぶしていく態度も積み重ねています。
 つまり、「国民の生活が第一」を掲げて政権を取ったはずの民主党の今の野田執行部は、こうして、過去の民主党を変質させながら、名実ともに保守党であることを鮮明にしようとしているわけです。
 なぜなら、保守政界にとっては日本の財界を守ることが使命なのですから。
 それによって、どういう政策を実行に移すかといえば、大衆課税の強化、社会保障などの国民福祉の抑制によって、財界への資金供給、つまり、全法人企業のうちのわずか25%の黒字企業のための税の減免・優遇なのです。やろうとしていることは、いまのギリシャのようなものです。

◆むしろ「危険運転」◆
 政権基盤の弱い者が権力の座に就いた時に共通している特徴は、一方で耳触りのいい言動を振りまきながら、他方で強権的な体制作りに走ることです。

 その最も典型的な例となったのがドイツのナチスであり、日本の軍国主義体制でした。
 ナチスは、政権を取ってまず行なったのが国会放火事件でした。これを共産党の仕業だとして弾圧に乗り出し、国内の批判勢力の一掃に利用しました。その一方で国内のレジャーとスポーツ振興に力を入れ、娯楽事業を膨らませることで政治的無関心という空気を蔓延させようと努めたのでした。その間にヒットラー・ユーゲントという青年組織を拡大させ国家主義、ゲルマン至上主義の宣伝を徹底させたわけです。ポーランドへの侵略を皮切りに、ヨーロッパ全土を戦禍に巻き込む頃には熱狂的な独裁政党へと急成長していました。最早、その時点では、国内には批判勢力は壊滅状態となっていました。
 日本の軍国主義もまた、治安維持法とその拡大解釈によって、最初は共産主義者、社会主義者などの取り締まりを口実とし、最後にはキリスト教徒も仏教徒も「天皇崇拝」でないからと、弾圧するに至りました。今の公明党の母体となっている創価学会も、日蓮系の仏教が国家宗教をめざす立場であったことから国家神道とは並び立たないものとして弾圧を受け、初代の牧口常三郎が獄死しています。
 その間に、中国への侵略戦争を軍部の暴走だとして内閣は見て見ぬふり、軍部追認を積み重ね、次第に政権そのものを軍部に乗っ取られることとなりました。戦争を始めてしまってから、国内では「大東亜共栄圏」だの「五族協和」だの、あとから取ってつけたように戦争の理由を振りまいてナチス時代のドイツ同様の国内世論の熱狂状態を演出しました。
 軍部の暴走は、何よりも「天皇陛下の軍隊」であったことが理由になっています。内閣にとっても国会にとっても、軍隊が口実とした「天皇陛下のご意思」には、逆らえなかったのですから。
 こういう過去を振り返るにつけ、今の民主党が、ファシズムと意外に近い立場にいることに気付きます。
 ファシストらに見られるように、基盤の弱い政権、つまり、次の選挙で勝てるかどうか自信がなければないほど、その政策は強硬さを増していきます。何としても今のうちに自らの政権にとって有利な立場を作り上げておきたいと、謀略の挙に出ることさえ、いとわないのです。

 今、民主党が国民に提供できる「耳触りのいい話」は、何もありません。「マニュフェスト」で振りまいた幻想はボロボロとはげ落ちています。そんな中で、天災からの復興というのは、民主党政権にとっては消費税増税をはじめとした大衆課税強化の絶好の口実となりました。さまざまな国民負担を強めるのにも利用できる口実です。これを「やむをえない」と思わせる空気を広めるために最大限に利用しようとしているのが実態です。
 その一方で、儲かる会社にもっと儲かってもらい(=黒字企業への優遇)、TPP、武器輸出などによって、日本の財界を潤わせることで、農業破壊などの多くの犠牲を巻き込んででも、経済が活性化できると思い込み、デフレからの脱却で生活も潤うはずだと思い込んでいます。好況が戻ってくれば、税金が増えても国民の不満は収まるはずであり、それまでの延命さえできれば、民主党政権は安定するはずだという青写真(未来予想図)なわけです。
 そのうえで、政権の安泰のために、選挙制度改革の名のもとに小選挙区制度の比重の拡大を狙っていることが、実は大きな問題です。自民よりも強硬な路線を取ることで自民との相似性を強調し、自民との二人三脚による「二大政党制」を現出することを狙っているわけですから。これに対して自民が異論を唱えるわけもありません。両党にとっては、この選挙制度「改革」こそが何よりも利害が一致するホンネです。これこそが最大の謀略です。

 初めて政権を握った民主党が、ダメもとで、次々と危険な方針に打って出ること、これがギリシャやタイの政権との類似性でもあります。対岸の火事と見るわけにはいかないだろうと思う所以です。
 実際、国会では明言できなかった方針をG20では国際公約にしてしまう野田演説(=消費税率の段階的拡大)など、乱暴な手法に打って出ているのですから。国民にはゴマカシを財界と資本主義列国にはゴマスリを、それが今の内閣なのですから。
 (そういえば、国連での鳩山の思いつき公約「CO2の20%削減」は、民主党のどこに残っているのでしょうか。これもまた、過去の民主党の「初期化」のもと、「Delete」されてしまったようです。)
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 この11月3日という日が、どうして「文化の日」という名前になったのでしょうか。また、ほかの祝日のように月曜日にずらされることがない日となったのでしょうか。

 敬老の日とか体育の日という記念日的な“祝日”は月曜日にずらされます。暦とか「宗教的」な意味を含んだ“祭日”は日付のまま維持されています。
 戦後の国会で「文化の日」と制定された11月3日は、基本的には1946年11月3日に公布された日本国憲法の記念日なのですが、実は戦前は「天長節」でした。つまり、明治天皇の誕生日です。明治天皇の没後は「明治節」となって“祭日”扱いとなりました。そのため、憲法記念日は、この公布の日ではなく、半年後の施行日である5月3日となりました。むしろ、公布日を意図的に明治天皇誕生日に重ねた、というのが真相のようです。
 憲法公布の記念日という単なる祝日であるならば、今では月曜日にずらされることになるのですが、この戦前からの“祭日”の性格をも言外に含めることとなったため、今日のように曜日に関係のない休日となりました。
 例えば、2月11日の「建国記念日」、4月29日の「昭和の日」も、春分の日や秋分の日と同じように“祭日”です。4月29日は、戦前は「天長節」、戦後は「天皇誕生日」、そして昭和天皇死去後は「みどりの日」、さらに「昭和の日」と名前を変えながら、なんとしても“祭日”であることがキープされ続けています。

 そんなわけで、今日が憲法記念日として記憶されるよりも、明治以来の神話的な日本の祭日としても記憶されるように、と、あいまいな名前の日となったのでした。
 平和国家という、武力に頼らない国家・国民をめざす根本の法律の記念日であるのと同時に、古事記・日本書紀に依拠した神国ニッポンの天皇の記念日でもある、という進歩と反動とが綯交ぜ(ないまぜ)にされた象徴的な一日だと思います。

 わたし自身は11月3日は日本国憲法が制定された日(公布日)、5月3日は日本国憲法が実行された日(施行日)として記憶しておきたいと思っています。
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 前回のように「波乱の時代」について考えてみると、ポーランド出身のショパンとかハンガリー出身のリストのイメージが浮かびます。ロマン派と言われる彼らですが、革命、民族をテーマにした曲もあり、いたるところで革命が続いた19世紀ヨーロッパの動乱の時代に生きた人々だったことを思い起こします。
 で、今日は、フランツ・リストから3曲。
 リストのピアノは難しいことで有名ですが、本人はひときわ大きな手だったそうで、それで難しい曲になったとも言われていますが、演奏家としてもダイナミックで、しかも、年中、即興で演奏していたらしいです。
 演奏会では、自分の曲も人の曲もお構いなしに即興でアレンジしてしまうとか、力が強くて、ついつい、“のり”が良くなると鍵盤とか弦のハンマーを破壊してしまうほどで、演奏会では3台のピアノを用意していたとか、「リストが弾いても壊れなかったピアノ」というのがピアノ・メーカーの宣伝になった、という逸話もあります。

リスト 《ハンガリー狂詩曲第2番》


ラ・カンパネラ


リスト「愛の夢第3番」 - 浅田真央 x フジ子・ヘミング

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 今日から11月。「今年もあと2ヵ月」とブログに書かれていたり、つぶやいている人もたくさんいます。
 さて、その前に、今年の10月は波乱続きで、これからの11月にもその余波が懸念される事象も少なくありません。
 “We are 99%”という抗議運動の世界的連鎖、フランス・ベルギー両国による政府系銀行の倒産、タイの大洪水、リビアでのカダフィ時代の終結、歴史的円高、大王製紙・オリンパス騒動、などなど、ちょっと思い浮かべただけでも、いろいろとありましたし、それぞれ問題は今も続いています。

◆資本主義大国◆
 抗議運動の世界的連鎖や歴史的円高については、少し前の記事になりますが、このブログでは、資本主義の成熟化と腐敗化で、ある程度の指摘をしました。手前味噌になりますが、何人かの方から「(資本主義について)分かりやすかった」と読者登録などの評価をいただいた記事でした。
 8月のこの記事で指摘した金融資本のマネーゲームの結果が、10月の格差社会への抗議運動となり、投機的な円高になったと考えています。10月にはEUがギリシャの支援を続けるかどうかで長時間の協議を行い、イタリアやスペインなどへの影響もにらみながら、「会社更生法」のような取り決め=債務の一部免除による再建と、似たような事態に備える基金の設立という合意に至りました。

◆革命地帯◆
 リビアの内戦や北アフリカ・中東の一連の政変は、いずれも、まだまだ、波乱含みです。どういう政治勢力が主導権を握り、どういう政治体制に落ち着くのかは、模索過程にあります。
 18世紀末のフランス革命のときもそうでした。穏健派(ジロンド党)と急進派(ジャコバン党)との争いの後、ジャコバン党による恐怖政治を味わうことでナポレオンがトップに立つ皇帝政治への回帰を経て、近隣各国との戦争やらパリ・コミューンやらを経験しながら共和政治へと、革命のはじめから言えばおよそ1世紀ほども政治的軍事的動乱を繰り返したのでした。(しかしそれはまた、諸外国にとっての教訓ともなり、こんなに時間がかかって多くの犠牲を生んだ民主化という迷路は辿らずに済んだ国々を生むことにもなりました。)

◆世界市場◆
 ところでヨーロッパの(民間)経済危機・(国家)財政危機だけでなく、タイの大洪水でも浮上したのが世界市場が一体化を深めていることです。日本企業だけでなく世界的に工業生産の拠点の一つとなったタイが何週間にもわたる大洪水に見舞われたことで、自動車、家電、コンピュータ関連の様々な分野で生産が止まり、今後半年、一年の間に大きな影響が出ることが避けられない事態となっています。
 何年か前の新潟県沖地震の際にも、日本の自動車メーカーの多くがある一つの会社に依存していた部品があって、この工場が被災して生産不能に陥ったために自動車産業全体が生産ストップを余儀なくされたことがありました。クルマのエンジンの中に使うピストン・リングでした。そして今年の3・11震災ではクルマの電子制御部品の生産が止まり、諸外国の自動車メーカーの生産にも影響する事態となりました。
 今回のタイの洪水は、さらにもっと大きな影響につながる問題となっています。

◆リスクの分散=世界市場一体化の促進◆
 昔とは違って、今は、企業経営の鉄則の一つはリスクの分散であって、生産拠点にしても販売市場にしても、どちらも分散させることが必須とされています。生産も販売も拠点をどこかに絞れば効率的であるには違いないけれども、これらの事態のように、いったん事が起これば経営全体がリスクに巻き込まれることになるからです。
 20年ほど前から、自動車でも電機でも、下請け企業はそれまでの系列から外れて販売先を広げる努力をしてきました。トヨタのカンバン方式などによって下請け部品の買い叩きがひどくなったために、それまでの系列工場という生き方ができなくなっていったためです。トヨタやニッサンの部品だけを作る系列工場からホンダもマツダもスバルも、と、得意先をいくつも抱える工場へと変わることで生き残ってきました。それがピストン・リングや電子制御部品(車載コンピュータ)のメーカーの側が市場を独占していくことにもなったと思います。
 これと似たことが、今のタイでも生じているわけです。パソコンのHDD(ハードディスクドライブ)は、世界の60%がタイで生産されているそうですから。
 安い労働市場(低コストのインフラや人件費、日本国内でいえば安い下請け加工賃)、しかも、安定した生産環境(国民性とか日本の下請け企業の高品質生産など)ということで、タイに集中する結果となったと思います。この集中化は今後見直しを迫られることとなるでしょう。ベトナム、インドネシアなどの東南アジア諸国ばかりではなく、それこそ「グローバル」に工場探しが進むこととなると思います。
 また、資本主義大国の工場がタイに集中することとなったのは、BRICs(ブラジル・ロシア・インド・チャイナ)という新興工業国がそれぞれ自前の資本が育ち、欧米企業を買収して傘下に収めたりするほどに資本の競争相手となってきたために、日・米・欧にとっては下請けとして利用できる立場でもなくなってきたからでもありました。
 つまり、日・米・欧だけではなくBRICsもまた資本主義大国化の過程にあるのですから、競争相手は増えるばかりであり、それだけ過激な競争となることも明らかです。(それだからこそ、TPPなども含めて、自由貿易協定=FTAのさまざまな形態が各国にとって急がれる課題として、また、それぞれに勝者となろうとする下心を抱えながら、浮上しているのでもあります。FTAがwin&winの関係づくりだなどと信じるとしたらあまりに人が良すぎるでしょう。)

 日本の下請け企業が世界市場での独占的地位を占める部品メーカーに変身したように、BRICsが下請け国から資本の競争相手になってきたように、そしてまた、タイ、その他の下請け国からも国際展開の力をつける資本が育ってくるのも必然であるように、「サミット(頂上)」協議国は増える一方となるでしょう。
 一方でリスクの分散が必須となっているように、安くて安定した生産拠点を探せば探すほど、世界市場は一体化を深めることとなるでしょう。

◆一体化か二極化か◆
 一つの方向で考えられることは、世界市場の価値の平準化が進むことです。(かつて日本人にとってはアメリカやヨーロッパ各国のような暮らしが憧れだったけれど、今はそれほど魅力も感じない若者が増えているように、です。) 今の中国は一人当たりのGDP(グロス・ドメスティック・プロダクツ=国内総生産)は、日本の10%程度ですが、これが日・米・欧並みの価値に上がってくるわけです。「安い」国は減っていくこととならざるを得ないでしょう。そうなればなったでナショナリズムの必要性もまた薄れて行くことでしょう。世界のどこで働こうと暮らそうと、同じ価値で収益も得れば消費もするのですから。(日本を愛する欧米人も、諸外国を愛する日本人も、そういう人々の暮らしが珍しくなくなってきたように。)
 しかし、実は、もう一つの方向もあります。つまり、持てる国と持たざる国との二重構造の固定化という世界の二極化です。下請け地域をあくまでも下請け地域として抑え込む資本の論理が支配する世界になるかもしれません。言いかえれば新たな形の帝国主義が幅を利かせる世界です。(ロシアとか中国は、露骨にその帝国主義路線を強めています。疲弊した日・米・欧の政府は、自国の財政では支えきれなくなって同盟関係の軍事的相互依存の性格を強めています。インドは兵器どころか軍隊そのものの売りに出て「ウチの軍隊をオタクの国の治安に使ってくれ」という傭兵商売に踏み出しています。)

 かつて、階級闘争は国内問題でした。それぞれの国内での資本対労働の闘いで、貧困の蔓延という国内の二極化と労・資の力関係の結果、さまざまな形態の国家となっています。世界の二極化が進めば、その階級闘争は国際的な連鎖とか連携の下での資本の結束であり労働の結束となるように思います。労働側の闘う手段は、ストライキと団体交渉です。持たざる国が一斉にストライキを起こせば世界の資本は手も足も出なくなるでしょう。ストライキではありませんでしたが、今回のタイの洪水のように、世界の生産が止まるのですから。
 それに、世界のどこかで誰かが生産に従事しなければならない限り、労働側を抑圧し続けることは不可能なのですから、いずれは、資本は敗北せざるを得ないでしょう。

 世界市場の一体化が平穏に進むのか、二極化のもとでの階級闘争の世界的広がりを経るのか、それは、まだ、どちらとも言い切れませんが、いまの資本主義大国が経験しているような国内問題と貿易問題を通じて、民主化の新しい形が広がることには期待しておきたいと思っています。なぜなら、どこの国でも弱者がより一層の犠牲を強いられる動きが強まっているからであり、その反発もまた強まっているからでもあります。今までの「エセ民主主義」がくつがえることに期待したいと思うわけです。
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 プロ野球で「軍」という名で呼ばれるのは巨人軍だけです。「ジャイアンツ」という名称よりも「巨人軍」という名前の方が浸透しているように、それほどに読売グループは軍隊的な空気を好むのを感じます。そしてまた、どこのメディアもこの名称を使うことに違和感がないようです。
 新聞社の記者感覚にしてみれば、ジャイアンツという6文字を費やすよりも巨人軍という3文字で収まる方が、文字数の節約=記事の拡充につながる、という気持ちはあります。40行のスペースしかないと言われて作稿(原稿の作成のこと)したものの収まりきらず、あと1行減らさなければ、という時にはこの3文字の差がものを言うのです。「巨人」と書けば2文字で済みます。そんなわけで「巨人軍」という呼称が定着した面もあるかもしれません。
 でも、見出しには「猛虎」という文字が躍っても「猛虎軍」という呼称は定着せず、やはり、あくまでも「タイガース」ですよね。セ・パのどのチームでも「軍」というのは巨人以外には浮かびません。

 さて、その軍隊的な「巨人軍」ですが、原辰徳監督のもとでは、どうも、いまいち、ファンの期待には応えきれずに来たように思います。リーグ優勝からも日本シリーズ優勝からも遠ざかったままです。
 わたしが子どもだったころは、日本シリーズ9連勝という偉業を達成した「常勝巨人」という華々しい時代でした。以来、日本のプロ野球ファンは半数が巨人ファンだとさえ言われた時代が続きました。まあ、長嶋がミスター・プロ野球と言われたように、プロ野球といえば巨人の活躍を楽しむものだったわけです。
 歴史物語風に言えば、巨人が豊臣か徳川のようなもので、ほかのチームは皆、天下人に逆らいたかったけれど力及ばなかった伊達、上杉、毛利など、引き立て役だったわけです。それだけに、阪神の村山投手とか国鉄(今のヤクルト)の金田投手など真田幸村のような何人かの仇役が巨人相手の猛者として脚光を浴びたのでもありました。
 さて、その巨人軍ですが、常勝時代が終わってからというもの、カネにあかせて大物選手の獲得でチーム力を強化しようとしてもうまくいかず、原監督の意向を汲んで若手選手から育成していく方針に切り替えてもこれといったスター選手が頭角を現すこともなく、プロ野球ファンでなくても名前を知っているような楽天のマークン的な選手を生み出すことはできずにいます。(今年獲得した投手・沢村は、久々にスター性のある選手だとは思いますが。)

 どうしてこんなチームになってしまったんだろうかと思っていたら、今年のドラフト会議での失態で、そのわけが分かったような気がしました。
 つまり、今の読売ジャイアンツは原監督の現場チームにしても、それを管轄するフロント経営陣にしても、「詰めが甘い」ということに尽きると思います。
 軍隊的な組織というのは上意下達の階層社会ですから、上層部が掲げる方針は下に行くほど水で薄めたように無自覚・無責任な風潮となっていく脆弱(ぜいじゃく)さを露呈させる仕組みです。しかも、トップの経営陣の判断力がおぼつかない分、その脆弱さはひどくなるわけです。上の判断力が甘ければ下が「詰めの甘い」仕事しかできないのは当然でしょう。
(だから、軍隊というのは本当に大事な作戦を計画する時には、正規軍ではなく特殊部隊を編成して、身内をも出しぬく奇襲を計画するわけです。これは、しかし、スポーツ界のチーム編成に応用する方法はありません。レギュラーチーム=一軍=正規軍が強くならなければならないのですから。)

 なぜ「詰めが甘い」と思ったかといえば、ドラフト1位指名選手の獲得競争でのことでした。
 東海大の投手・菅野は、原監督の妹の息子で、お互い、伯父と甥という関係で、当人同士は早くから菅野は巨人へ、という気持ちで固まっていたところ、日本ハムが1位指名に名乗りをあげてしまい、抽選の結果、プロ契約の交渉権をとってしまったのでした。球界の誰もが知っていた二人の関係でしたが、日ハムは、敢えてそこに割って入ったのでした。
 菅野選手は、親子三代の血統のなせる業か、大学野球の選手の中でもベストスリーの一人と言われるほどの活躍をしました。特に球速はプロ野球選手並みというかそれ以上の157km/hをたたき出した剛速球の持ち主です。大学生のうちにこの威力ですから、プロになればどんなに成長するだろうか、と、どのチームにとっても欲しい選手には違いなかったわけです。
 なので、読売グループは、彼が大学3年生のうちから原監督との親戚関係であることや相思相愛関係であることを前宣伝し続けたのでもありました。そのためか、ジャイアンツ以外の11チームは「遠慮」していたかに見えたわけなのですが、そんな親戚関係など知ったこっちゃない、と、日ハムが動いたことで今回の騒ぎとなりました。

 読売グループは、つまり、前宣伝で事足れりとして、安穏としていたのでしょう。水面下の動きを察知することも出来ず、日ハムの奇襲攻撃を予想もしていなかったようです。それが、フロントの甘さだったと思います。
 もちろんドラフト会議ですから、12球団にとって公平なチャンスを保障する仕組みには違いありません。ですから、日ハムの奇襲に文句を言えるスジはどこにもありません。しかし、読売が本気で菅野を欲しがったのだというならば、水面下での根回しに力を入れる必要があったでしょう。それを怠ったからこその対抗馬の出現となったのだと思います。
 世の中「何が起こるか分からない」という覚悟で仕事をしていれば、今回のように、人に出し抜かれることも防げただろうと思うわけです。だから、読売のような軍隊は「詰めが甘い」と思った次第です。

 読売には数々の、そういう「前科」があります。投手・江川、野手・元木のように、ドラフト指名に失敗して、彼らに浪人生活をさせてしまったことなど、言わば「卑怯な手」を使うことに追い込まれた経歴が多いのです。そんなことは、12球団の中でも読売ジャイアンツだけしか経験したことがない汚点でもあります。

 というわけで、こういう球団ですから、原クンがいくら頑張る気になっていても、所詮、現場「監督」にすぎないのですから、カワイイ甥っ子を獲得することも出来ずに、地団駄を踏むことになりました。
 というわけで、こういう球団ですから、日本シリーズ制覇など、夢のまた夢、なのだろうと思います。
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 いま、TPP(トランス・パシフィック・パートナーシップ=環太平洋協力協定)の議論が高まってきています。わたし自身はこのアメリカ主導の協定作りになだれ込むことは、文字通りアメリカの属国らしい売国的な路線だと考えています。
 資本主義経済が世界全体の経済の主導権を握る限り、資本の論理で世の中が動いていくことは避けられないわけですから、アメリカのみならず日本の資本にとっても市場拡大を目指す点で(どこの個別の資本が勝利するか敗北するかという勝敗予想は別として)利害が一致している限り、TPPは押しとどめることはできないのかもしれません。

 ただ・・・。
 今朝、コメをとぎながら表の農家の風景を眺めていたら、収穫後に干してあった稲ワラを田んぼの真ん中で焚き火をしている農家がありました。あの煙の“かおり”が好きです。
 「田んぼの真ん中での焚き火といえば、子どもの頃は、正月に鏡餅を持ち寄ってドンド焼きをやっていたなぁ。」
 稲ワラを塔のように高く積み上げて火を放つドンド焼きの光景は熱くて勇ましくてドキドキしたし、焼けた餅を頬張るのが嬉しかった。普段は静かな農村で、大勢の人たちが集まって、賑やかだった。
 そんなことを思い出しました。

 TPPで貿易関税の例外なしの撤廃となれば、コメはまず、国内では壊滅的な打撃を受けるだろうなぁ。農村という人々の集まり、暮らしそのものが消えていくことになるのだろうなぁ。

 それに・・・。
 コメという植物は、もともと熱帯のもので、日本がその食用生産での北限を切り開いてきた植物でした。細長いインディカ米ではなく、日本独特の品種を開発してきた歴史でした。この開発力もまた、消滅していくんだろうなぁ。
 日本のコメの開発は寒冷地に強いコメを試行錯誤の品種交配によって行なわれてきました。自然の遺伝子の組み合わせの中から選りすぐって品種改良を積み重ねた成果がササニシキでありコシヒカリだったわけです。
 これからは、遺伝子組み換え大豆と同じように、バイオ産業によって、「何世代かのちにはどんな影響が出るかは知らないが、とりあえず、うまく生産できているのだから」と、不自然な人工植物を食用に提供することが普通になっていってしまうのかもしれない。
 農村を豊かにしたい、農民の暮らしを恵まれたものにしたいという思いで開発を続けた日本の農林省(今は農林水産省)や寒冷地の大学の農学部の先人たちの使命感は、これからは、ひたすら資本の利益のための事業開発となり技術開発にとって代わられていくのだろう。と、思います。
 農業資本主義の浸透によって、日本の農村は、生産性の高い一部の地域だけが、また、収益性の高い一部の品種だけが大規模経営の大資本による経営となり、生産されるコメはバイオ・ライスになっていくんだろう。TPPを受け入れるならば、つまり、アメリカ資本の要求を呑むのであれば、そうなるんだろう。と、思います。

 TPPには、中国、韓国、タイは参加を表明していません。もともと、アメリカが仕掛けている中国資本を封じ込めるための政策であって、昔、日本やドイツがファシズムに走った頃の欧米帝国主義によるブロック経済という市場囲い込み作戦の現代版なのですから。アメリカ依存ではなくヨーロッパにも大きなお客がいる韓国やタイは、日本ほどにはアメリカ追随ではないので、今のところ様子見ということにしています。
 かつて原子力発電への依存を促進した保守政界と財界は「バスに乗り遅れるな」と、原発依存が経済発展と(原子力)技術の開発のために避けられない道だという世論を作り上げました。いま、彼らはまた、同じように「バスに乗り遅れるな」と、自由貿易なるものの宣伝に努めています。たぶん、そのツケは、一世代か二世代後に顕在化することとなるでしょう。いまの原発問題のように。

 言っておきますが、自由貿易とは、自由に弱肉強食を演じる、ということです。そのおかげで、農村風景は消え、伝統の行事も消え、伝統の文化も消えることを厭(いと)わない立場です。グローバリズム、コスモポリタニズム、インターナショナリズム。これらの言葉のニュアンスの違いを、よく考えてみたいと思っています。資本はグローバリゼーションの立場をとり、夢想家はコスモポリタンをめざし、共産主義者はインターナショナリズムを掲げています。
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 秋も深まってそろそろ冬、というこの時期、思い出す人の一人がビリー・ジョエルです。彼の歌って、秋冬向きの雰囲気だと感じています。独りよがりかもしれませんけど。

The Stranger 訳詞付 / Billy Joel


Honesty(訳詞付) / Billy Joel


Just The Way You Are (訳詞付) - Billy Joel

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 ふと、思い出したことです。
 業界新聞の記者だったころ、都内の至る所をうろちょろしていました。少なくとも一日平均3~4カ所、勤務時間外の夜の時間も含めれば5カ所くらいの移動は普通の生活でした。
 で、思い出したのが六本木から表参道に移動する場合のことです。赤坂から六本木に移動するのと似たような話です。

 六本木のロアビルにあるショップの取材の後、表参道のスパイラル・ビルでのワコールの記者会見に移動するとしたら、みなさん、どうやって移動します?記者会見までの持ち時間は30分です。

 六本木は日比谷線で表参道は千代田線です。どちらの線も乗り換えには遠い駅ばかりで厄介です。六本木から日比谷に行ってそこから歩いて千代田線の霞が関に乗り換えるのも、もっと後戻りして日比谷線の茅場町と千代田線の大手町の乗り換えも遠くて仕方ないのです。
 六本木から恵比寿、そこから渋谷に行って表参道へ、というコースも、納得がいきません。

 ということで、わたしが選んだコースは、
 ロアビルから歩いてスパイラルビルへ、でした。まあ、タクシーがすぐつかまるようであればタクシーに乗るのもいいでしょうが、急いでいる時ほど、タクシーを待つ時間がやたらと長い。
 ロアビルを出て、六本木通りを西に進んで、「テレ朝通り」のややこしい交差点を斜めに北に上がっていくと富士ゼロックス・ビルの脇を通って骨董通りに出ます。コシノ・ジュンコ・ブティックとか小原会館を通り過ぎて突き当った青山通りを右に行けばスパイラルビルです。骨董通りと青山通りが出会う交差点は昔は角にガソリンスタンドがありましたが今はイタリアのMaxMaraになっていますね。
 つまり、残り30分までは、ロアビルでの取材に粘ることができた、というわけです。スパイラルでの会見に間に合う自信がなければロアビルでの取材は早々と切り上げていたと思います。粘ることで予定外の最後の5分に「おいしい情報」を漏らしてもらえたのですから、残り時間ギリギリまで居座っていましたよ、記者だったころは。
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