kyottides的 喜怒哀楽

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 ようこそ。
  仕事の話は、別の場で語り合ったり、宣伝させてもらう方がいいだろうと考えましたので、このブログは、個人的な意見だけに徹することにしました。

 それだけに、旗幟鮮明になると同時に、人によっては偏向だと思うかもしれません。でも、誰にとっても、自分の立ち位置というものがある限り、それぞれが何らかの偏りを持たざるを得ないことを理解してほしいと思っています。
 つまり、中立だとか公平無私という立場は実は幻想にすぎないのであって、自分自身が何らかの行動を選ばなければならない時、そこには必ず、一人の身であれば一つの行動しか選ぶことはできず、それは、必ず、誰かと歩調を合わせることにならざるを得ないのです。
 それが、どういう立場に結びつくのか、それは、個々人の選択の問題です。そのために、ここでは、選択のための考える材料を提供したい。それは、すなわち、わたし自身の立場を提示することで、共感できるか否か、また、どの程度に共感できるのか、あるいは、「おかしいじゃないか」と疑問を抱くことも含めて、材料の提供になればいいと思っています。

 私の意見に共感できる人も反発を覚える人も、または、どう考えたらいいのかと迷う人も、それぞれの立場から、建設的な議論が生まれ、それぞれの行動にとっての判断材料を深めることができれば幸いです。
 したがって、ためにする議論は、無視させてもらいます。(勝手にコメント削除させてもらいます。)
 話し合うことができるとすれば、飽くまでも誠実で真摯な議論の場にしたいですから。

 ということで、よろしくお願いします。
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丸くなるのが大人なのか、尖がるのが青いのか ⇒だいたいはこの理屈で宥(なだ)めたり宥められたりだろう。 なんとかに竿させばどうのこうの、と。 だが、そういう「事なかれ主義」の果てが、今の傍若無人な政権とその与党、傲慢無恥な企業経営者を製造することになった。 日本的美徳の自虐。

そんな風潮の上に重ねられ続けて来た悲惨な話が深刻だ。 「オレ(ワタシ)、バカだから」 の蔓延だ。 日本の学校教育では、自分をバカだと思い込ませる精神的奴隷化の徹底が貫かれてきた。 考える者・疑問を持つ者・異議を唱える者は、「尖がってる青いヤツ」として異端視するための教育。

理屈なんかこねるより、おとなしく従っていれば、なんとかなるんだから我慢しろ。それに、我慢して頑張れば肩書も上がる、将来の安泰も見えてくる。 バカだと思い込まされた者たちは、こんな自分でも希望が持てるのかと、まんまと騙される。 なんと皮肉で悲しい、企業至上主義、国家至上主義 😢 。

さて、ついでに。
エリート・コースの真ん中を上り詰めるはずの学生どもの不祥事の連続。人を人とも思わない破廉恥な犯罪。ブランド力で言えば最高級の「慶応」「千葉大医学部」の腐敗は、人をバカにする「バカだから」的な卑下社会の反映だ。
植民地民族はバカにされた果てに独立を闘い取った。

 

多様性 ⇒偏見による差別を恐れずに済む社会を目指すことがどんなに明るい社会になるかと思う。実は、多様性は日常生活の至る所にある。衣食住の全てで。和・洋・中や朝鮮、インドなど世界の料理、お茶やコーヒー、それにアルコール類も多種多様。そうした多様性は誰が担っているだろうか。

ところで、ササニシキを見なくなった。以前は、好んで買っていたコメだ。 酢飯にした時にコシヒカリよりは、べとつかないということで、今でも寿司屋さんが好んで使っているらしい。弁当類では、ブレンド米にする方が売れるという。
コメの多様性もまた、考える。
唐辛子も一味よりは七味が好み。

各地のブランド米が多様性の表れかと言えば、そうでもないだろうと思うのは、コシヒカリ系の中での話だから。かつては安かったササニシキ系は今では希少商品として高値になっている。 コメの楽しみの幅が狭い。それがつまらないのだ。似たようなものしかない市場なら、飽きられる。多様性の陥穽かな。

フォルクス・ワーゲン(人民車)しか走っていなかったナチ政権下のドイツとか、トラバントしか走っていなかった旧・東独。人民服の中国や国民服・モンペ一辺倒の日本など、単一化した時代、社会がモノトーン化した時代の息苦しさを考えてみる。
多様性の社会がどんなに生き生きとしていることか。

さて、排外主義の諸君。君らが熱望するのは、実は、そうした味気ない単一化社会に他ならない。多種多様なメシを楽しみ、服装を楽しみ、クルマのデザインなどを楽しむには、多種多様な人々との共存を楽しむ以外にはありえないのだ。
コメもコーヒーも調味料もブレンドが旨い。社会もブレンドが楽しい。

民主主義とは、騒々しくて・面倒な手間暇がかかって・膨大なエネルギーが必要なことだと思う。誰もが対等であるほどに、そうだと思う。 だが、これこそが社会のルールとして根付くべきことだろう。 これを厭う者が全体主義的な独裁の方向を狙う。最も嫌うのが徹底的な民主主義者である共産主義者だ。

「左右の全体主義」という非難がある。共産主義者だって全体主義だ、と。民主集中制といっても中央集権であることに変わりはないからだ、と。
とんでもない話だ。階級差別のもとの中央集権は官僚的中央集権であり、これを乗り越えるのが民主的中央集権だ。

会社でも団体でも政党でも、組織的団結と統一がなければ、その看板に値しない。派閥や分派が野放しでバラバラな会社など存続しようもない。
では、どうやって一つの意志にまとめ上げるのか。階級差別の組織にとっては、問答無用の命令系統、すなわち官僚的統制だ。
共産主義者の組織は民主的運営だ。

カナメは、どれだけの討論を保障するかにある。
この一点だけでも、比較してみたらいい。
党大会で4日も5日もかけて討論する政党はどこか、わずか1日の日程で終えてしまうのはどこか、と。党大会の最終日に代議員の意見・提案から、決議案の修正・補強を厭わない政党はどこか、と。

徹底した民主体質は、国会議員に対する態度にも表れる。
共産党は地方議員から国会議員に至るまで、「先生だなんて呼ばないで」という。一般市民と同じなのだと強調する。みんなの声の代弁者に過ぎないのだ、と。だが、その仕事ぶりは、与えられた任務に応えるべく半端な働きではない。

党組織も、普段の光景は、地区委員会の方が支部長や党員たちよりも腰が低い。だからこそ、機関決定の重さがあるのだ。「みんなの意志の決定」なのだから。だから、こうと決めた時には断じて怯まない。それを全体主義と非難するのはお門違いだろう。

今の日本で、本当に政党らしい政党というのは、おそらく共産党以外にはないだろうと思う。
この場合、政党らしいとは、民主主義的な団体としての、という意味だ。政党の主張としてばかりでなく、自らの運営体質として民主主義が根付いている政党、という意味だ。

今の権力が最も嫌う相手、それこそが、今の権力の一番醜い部分をあばきだす相手に他ならない。
それが、誰よりも最も民主的な体質が根付いた勢力なのだ。それが、誰よりも歴史の歩みを前に進めようとする勢力なのだ。
だから、わたしは、反共どもを軽蔑するのだ。

基本的人権と戦争犯罪 ⇒現代史の最も肝心な教訓だと思うのが、この二つ。 基本的人権については、人種とか民族、あるいは男女の性別などでのあらゆる差別を克服しようという人類の教訓。もちろん、身障者に対する差別も、だ。 戦争犯罪は国家が戦争を起こすことを人類に対する犯罪だと断じる教訓。


決して古来からの観念ではない。19世紀、20世紀の戦争の時代の悲惨さから学び取った教訓だ。差別を排する世界人権宣言にしても戦争を国家犯罪とする国連憲章にしても、20世紀半ばになってやっと出来上がった新しい概念だ。 これらの理念を現実化して常識化するのが今の時代の闘いだと思う。


日本国憲法が表わしているのは、この基本的人権の確立と平和主義(つまり、国家による戦争は犯罪)という理念だという点で、誇りを持ちたいと思う。 この憲法は人類の平和的発展を呼び掛けた基本文書なのであって、その内容の具現化こそが、自分たちの課題であり、日本の権力の義務だと思う。

『共産党宣言』が出たのが1848年。それから170年近くの今だが、共産主義者の運動が多数派を握ったことはないと思う。革命勢力の中でも少数派だっただろう。激しい闘争の社会では急進的セクトの過激な扇動の方がうけが良かったし、中間層幻想の国々では日和見な穏健派の方が支持されたのだから。

マルクスやエンゲルスの時代にもバクーニン主義やラサール主義との闘いに明け暮れる「消耗」を強いられたり、レーニンの時代にもスターリンもトロツキーもどっちも信頼できない状態だった。何時でも、いつまでたっても、科学的社会主義の無理解・誤解がつきまとい、闘わなければならなかった。

そんな連続の中で、とんでもない奇形も幾らでも生まれた。
実は、それほどに科学的社会主義は理解されにくいのだ。というのも、誰にとっても資本主義社会の価値観・世界観が誰の意識の中に染み込んでいるのだから。社会主義的な未来像だけでも、左右の日和見の思い込みが幾らでも氾濫するのだから。

政治革命・社会革命を体験して初めて実感できることも多いだろう。それほどに、共産主義者の運動は、当人たちにとっても、揺れ動く運動だし、まして、リベラルなどのプチブル的な諸君などには理解よりも誤解・曲解されやすい運動なのだ。 闘う手段はただ一つ。「知は力」、これに尽きる。そう思う。

誰だって、知的にオールマイティになど、なれないと思う。誰だって得手・不得手があると思う。 でも、何の学位も持っていなかったエンゲルスの広範な分野にわたった百科全書のような知識の深さには驚くだろう。不勉強だった哲学で今でも誰も論破できない著作にたどり着いたレーニンに驚くだろう。

日本の革命家たちの中にも、中卒で集団就職で製鉄所や国鉄などの労働者となり、独学でドイツ語を学習して『資本論』を原書で読むほどになった、という人々の逸話も数知れない。

半端な学習では左右の日和見になるしかないほどに、あるいは、真摯な活動家であっても、誤解・曲解に巻き込まれやすいほどに、科学的社会主義は難しいのだ。思想闘争が避けられないのだ。
勝利した社会主義を体験したいと願いつつ、道のりの険しさもわきまえているのが共産主義者だ。と、思う。

エジソンとかフォードとか、あるいは、豊田佐吉とか松下幸之助、本田宗一郎とか、産業資本家たちは、思想的にも政治的にも、いろいろとなんだかんだあっても、世界の暮しを変えたほどの本物の変革者だった。 そういう"ド迫力"は今の資本家たちには見られない。むしろ、腐敗の象徴ばかりが目立つ。

私が業界新聞にいた頃は、島正博、堀録助に凄みを感じていた。 20代の頃、初めて自分一人でワンマン社長(=独裁者)堀録助インタビューに臨んだときはガタガタ震えていたほど。(でも、その時の記事を三日間、デスクに置いていたのは珍しいことだったと、秘書課長が教えてくれて歓喜 (^^♪ )

島正博さんは、和歌山の島精機製作所の創業者。工業用横編機の開発競争で世界制覇。 堀録助さんは厚木ナイロンの創業者。国策会社・片倉工業の出身で、戦後のストッキング業界を発明の連続で様変わりさせた。シームレスストッキング、パンティストッキング、サポートストッキングと相次いで発明。

思うことは、マルクスもレーニンも指摘していることだけれど、産業資本の時代から金融資本への主導権の変遷の中での変質ぶり。後者の時代は既に腐敗の始まりの時代であって、ブルジョアジーの知的荒廃と倫理的荒廃の蔓延する時代となる(なっている)、ということだ。
産業資本家の中で勝ち上がったのは、発明家たちだった。社会を変えるほどの結果を生み出していた。しかし、そうした無頼漢どもが活躍する愉快な変化の日々が、次第に影をひそめて、マネーゲームの金融資本の動向が暮らしの全体を左右するようになってくると、働く者たちの希望も野心も消え去って自らの保身しか眼中になくなり、それは、子どもたちの世代にも反映して刹那的な享楽にふけることにしか興味を持てない子たちが溢れる社会となった。

もう、資本主義経済の社会は、終わりにするしかない時代なのだ。それを「必然の国から自由の国へ」と表現したのがマルクスとエンゲルスだった。生産は社会的な組織性の時代になっているのに、その(成果の)取得は私的な無政府主義の時代なのが資本主義であって、社会的な取得という共同性の仕組みに変革しなければ発展できないところまで来ている、と。
誰かが人間的に発達する機会を得るのが私的取得形態の成果によるものだとすれば、それによって生み出される成果は私的に還元されなければならない。だが、社会的な支えの下で獲得されたものならば、その人の成果は社会的に還元されるのが当たり前になる。
これは私の成果です、という私的な請求権を社会に対して抱く意識や感覚が生まれる根拠がなくなる。自らの成果は社会的な支えによって獲得されたものであって社会的に還元する、という意識へと変わる。

マネーゲームにさえ勝利すればいい私的な競争関係が社会の発展性を阻害している。誰もが自由に発展する機会を損ねる桎梏になっている。もう、それを終わりにして、次の発展段階の社会に切り替えようではないか。封建制度の時代を終わらせて資本主義の時代になったように、資本主義の時代を終わらせて次の時代を切り開こうではないか。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
そういう社会をめざし、実現しようではないか。それだけの力を作り上げてきた社会なのだから。

fail safe system ⇒最初に強烈な印象を受けたのは米ソ冷戦時の米軍の『核先制攻撃症候群』の話を読んだ時だった。爆撃でもミサイル発射でも核兵器行使の命令が間違いではないことを確認するためのチェック機能が大統領から実行現場までの間に何段階も組み込まれている仕組み。

ことがことだけに深刻な問題だったし、絶対に間違えてはならない命令のチェックだった。

たぶん、これが基になっているのではないかと思うけれど、

「人間は間違えるものだ」

ということを前提にすることが、どんなシステム開発や商品開発でも当たり前の時代が始まったと思う。

また、むしろ、間違えることの積極的な意味を位置付ける考え方も広がっているだろう。人間的な成長だとか、企業などの組織上の運営だとか、人間が間違えるようにできているから発展性もあるのだ、と。しかし、それが、弁証法的な発想であり唯物論的な観点なのだと、理解している人はまだ多くない。

弁証法的な発想・唯物論的な観点は、当然の問題意識として歴史的相対性を踏まえることになるから、この哲学(=ものの見方考え方)は弁証法的史的唯物論と呼ばれる。

実際に科学や技術の各方面では実践されている観点なのだが、この名称を拒みたい人たちが少なくないから、反知性・反科学が跋扈する。

だから、人間とは「こういうものである」という絶対的な命題を求めたがる人々と、「こういうものになる」という発展性を見ようとする人々とでは、考え方に大きな差が生まれることになる。

さて、「ニッポンジン」とは? 「こういうものである」か「こういうものになる」か。歴史的にはどうだったか。

凄まじい・・・。いわゆる「乗り」とは違う熱狂というか、狂乱というか。

https://youtu.be/QoF-7VMMihA

実は、ビートルズのライブは、あまり上手ではなかったという話があるのも当然で、歌なんか聞いちゃいない絶叫の嵐の中で自分たちのサウンドも聞き取れず、リズムもハーモニーもよく聞き取れない中で演奏していたためらしい。
それにしても、笑ってしまうほどのこの絶叫ぶりは、今は昔の話だろうなぁ。

たぶん、エルビス・プレスリーとビートルズが、これほどの熱狂を生んだ最後のエンターティナーだろうと思う。これ以後は分散化・分断化の時代に突き進んだように思うからだ。
政治的な運動も、60年代を最後に熱狂的ではなくなっていった。それほどに、誰もが孤立的に切り離されていった。

かかりつけ(?)医 ⇒うちのお客さんでもある町の開業医。「足の指が思い通りに動かない」と診てもらいに行ったら「う~ん、俺じゃ分かんねぇ」。「だからね、先生。先生だったら、適任の専門医を紹介してもらえると思って、相談に伺ったんですよ」

「う~ん、あの病院だったら(医者が)大勢いるんだけど・・・」「はい」「でもなぁ・・・。ま、とりあえず紹介状作っておくから」と、その病院に行くことに。 行ってみて、よく分かったのは、今の病院って、ものすごく営業会社なんだ、ということ。検査漬けの日々が始まりました。

元の開業医も、紹介された病院も、最初に疑ったのは「マヒしているのは足だけか」と、手の痺れとか視界の異変はないかなど、脳の障害。 結果的にどこにも異常は見当たらない、ということになったものの、レントゲン、CTスキャン、MRIとジャンジャン検査、その間に何度も血液検査。

血液検査なんて、一回で全部調べてくれりゃいいだろっ、と思いつつ「CT検査をしてもいいかどうか調べるため」「MRIで造影剤を注射してもいいかどうか調べるため」etc. 原因不明だから、神経科だの整形外科だの、いろんな科をたらい回しなのは「データも共有しているし、さすが総合病院」。

ところが、検査となると、各科ごとに縦割り指示なのか営業目的なのか、幾らでも重複するような検査の雨あられ。診察代が「無駄に」膨らむばかり。

そんなこんなで1か月たってみた結果、 神経内科の所見では「脳の異常は見られませんでした」、整形外科でも「神経系統のどこかが圧迫を受けているとか損傷している形跡は見えませんでした」・・・。 で、足がマヒしている原因は不明なまま。 ただ、1か月間、食後1錠の薬を飲み続けたことで変化。

「一か月で症状が2ポイントも改善するとは思いませんでした。引き続き、薬で様子を見てみましょう」と整形外科の先生の診断で、2か月分の薬を処方されて、次回は12月に「予約」となりました。 なので、今回も、診察代すら受け取らなかった地元の開業医の先生の付属の薬局で薬を購入。

「あの病院には、これ以上、稼がせるものか。それより、ただで見てくれた先生に少しでも応えなくちゃ」と、先生とご夫婦で業務を分担している薬局に処方箋を持って行ったのでした。 先生のお願いは「森元さん、今度また、パソコンのこと教えてくれよな」でした。「はいはい、そりゃ、喜んで」。

ところで、今の総合病院のシステム化は凄いなぁと感心した一面もたくさんありました。 どの診療科目の先生の診察室でも病院内のネットで私のデータは全部共有されていたのでした。画面を覗いてみると、「ファイルメーカー」のようなRDBソフトが働いている様子。総合力発揮に威力ありそうでした。

なのに、仕事の一部は「わざと?」と思うほど無駄に縦割りなのは、各部門とも「業績」に追い立てられているのを感じました。医者も看護師も皆さんとても低姿勢で「ぜひ、検査をお勧めします」と。 ある意味、今の医療現場の人々がどこまでも採算性で突き上げられている現実を見た思いでした。

せっかく、縦横の連携ができるようなシステム的な体制ができていながら、そのうえで、必要以上の検査を繰り返すとか、たぶん、必要以上の処方さえありそうだと疑ってしまうような運用を強いられる病院の現実の一端を垣間見た思いがしました。 医者嫌いの何年ぶりかの受診の感想でした。

「字幕がないのが当たり前、字幕があるのは善意」( @pin_pinbit )について

たまたま目にした「論争」で、要は聴覚障害の人にとって字幕のない映画(やニュース)は差別に当たるのかどうか、ということらしい。

幾つかの論じ方があると思う。
直接の言葉を引き取れば、一つは何が「当たり前」なのか、もう一つは何が「善意」なのか、となる。それは、言外の意味をどれだけ斟酌するのかで話の厚みというか深みも変わってくるだろう。何故なら、どちらの場合も絶対的概念ではなく、相対的概念なのだから。
まず、「当たり前」について。
いわゆる障害者には先天的にも後天的にもさまざまある。基本的には社会的弱者とされる。だが、社会的弱者なら、実は、障害者ばかりではない。まだ自立した生活ができない未成年もいれば、もう体のどこかにガタが出始めた高齢者もいる。中には体質的に病気に弱い人もいるだろう。未成年や高齢者は人生の一部だけが社会的弱者だが、障害者は障害を抱えた日から終生の社会的弱者となる、という違いがある。社会的弱者ならいろいろいることが社会の前提として受け入れられるかどうか、そこに「当たり前」という感覚の違いが読み取れると思う。
社会的弱者がいることが当たり前だと考える立場からは、どんな弱者であっても、身の回りに普通に過ごしていることが当然のことに見える。むしろ、普通に過ごせるようにすることが当たり前だと考える。
たとえば、乳幼児の死亡率、社会階層による人生の寿命の長短の違い、戦争や疫病による四肢の一部の損壊、こういったものは歴史的に大きく変わってきた。日本でも敗戦から20年くらいは傷痍軍人たちが街頭で膝まづき施しを乞う光景が珍しくなかった。医療や福祉の様々な取り組みの努力が延々と積み上げられてきたのは、子どもを無事に成長させたい、出来るだけ多くの人が天寿を全うできるようにしたい、等々の願いがあったからではないだろうか。現実に向き合うとき、そこに、多種多様な弱者が存在するからこその課題だっただろうし、これからもそうであり続けるだろう。それがまた、いわゆる健常者の医療や福祉の向上にもつながってきた話だろう。
そうした社会的弱者の姿が目に入らない社会となったら、どういうことになるだろうか。おそらく、医療も福祉事業も、発展性はないだろう。課題そのものが意識されない社会になるのだから。
ファシストは、そういう社会を目指した。彼らにとっては独占資本の意図に忠実に振る舞うことが「善意」であったから、「役立たず」は社会から抹殺することを当然視した。資本の論理はいつでも「役に立つか否か」、つまり「カネになるか否か」なのだから、社会的弱者というのはお荷物でしかない。それが今、おぞましい形で蘇ろうとしている姿として、現在のアベ政権の態度の中に見えてくる。子供の成長とか教育や学問に対する冷淡さと資本の要求への偏重(=軍・産・学協同路線)、医療・福祉関連予算の切り捨てなど、「無駄」を省く露骨な路線なのだから。
さて、そんな中で、ダイバーシティ(多様性)という単語が時折話題になるけれど、それは、実は、人間であればあり得るような、ありとあらゆる可能性を視野に入れたものでない限りは、真の理解にはつながらないだろう。であるならば「当たり前」とは何だろうか。例えば冒頭の話題のように「字幕がないのが当たり前」なのだろうか。

さて、「善意」とは何だろうか。今も触れたように、ファシストにとっての善意は資本の利益に供することだった。お荷物な弱者など社会には不要であって、生産に役立つ健常者だけがいればいいと、日本もドイツも、また、他の諸国のファシスト政権も徹底的に弱者排除の態度を貫いた。ましてや、彼らにとっては、権力に逆らう野党的な者どもは社会の害悪でさえあって、ダイバーシティなどもってのほかだったから、過酷な弾圧も厭わなかった。
それほどに立場が変われば見方も変わる相対的な概念の「善意」なだけに、その善意とは、誰の立場に立っての善意なのかが問われることになる。

字幕をつけてあげるのは「善意」であって、もともと、そんなことまでする必要もないのだ。それが企業のコスト感覚なのだ。メリットがあれば字幕をつけるが、売れ行きに関係ないと判断すれば、そんな善意など必要ない。何しろ、コスト計算こそが企業の要諦なのだから。だから字幕をつけてくれる「善意」をありがたいと思うのが「当たり前」だろう。
これがまあ、資本主義社会の資本主義的な理屈に他ならない。
マルクスとエンゲルスの二人が起点となっている科学的社会主義の最初の根本理念は、社会的生産の社会的所有だ。つまり、社会的生産の私的所有という資本主義から、生産の成果を社会的に還元する社会に切り替えようという立場。この立場から言えば、コスト意識についても、企業単体のコスト意識と同時に社会的コストという観点を前提にするようになる。つまり、企業が責任を持つのは、自らの経営のコストばかりではなく、社会的に貢献するべき要素としての社会的コストの負担、ということだ。
『資本論』の話をかいつまんで言えば、どんな企業も正当な事業活動をしていることを前提に、原材料の仕入れとか加工を行なって、それをもとにした生産の上での商品販売に至るどこにも不正はなく、単に価値を(原材料から自らの販売商品に)移転しているだけの話なのだが、どうして利益を生み出すのかといえば、生産と流通の過程で唯一付加価値が発生するのが「労働力」を稼働させた「労働」の結果にある。価値通りの「労働力」を買って、その価値以上の「労働」の成果を手に入れる、ということだ。この搾取こそが企業利益の源泉であり、また、諸々の税金の源泉となっている。
その利益と税金の一部を社会還元するかどうか、それが社会的コストに他ならない。どういう使い道なのかは、国によって時代によって、教育・医療・福祉の様々な分野の振り分けの考え方の違いになって表れる。
だから、企業の「善意」という表現が、どんなに欺瞞的な厚かましさの表現であるのかも分かるだろう。もともと、搾取した金の一部なのに、それを「ありがたいと思え」という「善意の押し付け」なのだから。むしろ、搾取された金の一部を社会的コストとして取り返すこと、これが、働く者の要求であるし、多様な弱者がいて当たり前な、多様性の社会の要求になるのは当然の話だろう。

何が「当たり前」か。
選挙の際の政見放送では、今では画面の一部に手話の人が登場するのは「当たり前」の光景になった。このこと自体が歴史的相対性を表す現象だと思う。「当たり前」は、時代とともに変わる。
何が「善意」か。
立場によって、その善意は身の毛もよだつホロコーストという悪意にもなる。感謝を強いられる善意を押し付けられて、とてつもない悪意を受け取ることにもなる。

「字幕がないのが当たり前、字幕があるのは善意」
とは、素直には受け取ることはできないだろう。むしろ、その言葉の端々に見える差別感覚はファシズムにもつながりかねない危うさを感じることの方が大きいだろう。