fail safe system ⇒最初に強烈な印象を受けたのは米ソ冷戦時の米軍の『核先制攻撃症候群』の話を読んだ時だった。爆撃でもミサイル発射でも核兵器行使の命令が間違いではないことを確認するためのチェック機能が大統領から実行現場までの間に何段階も組み込まれている仕組み。
ことがことだけに深刻な問題だったし、絶対に間違えてはならない命令のチェックだった。
たぶん、これが基になっているのではないかと思うけれど、
「人間は間違えるものだ」
ということを前提にすることが、どんなシステム開発や商品開発でも当たり前の時代が始まったと思う。
また、むしろ、間違えることの積極的な意味を位置付ける考え方も広がっているだろう。人間的な成長だとか、企業などの組織上の運営だとか、人間が間違えるようにできているから発展性もあるのだ、と。しかし、それが、弁証法的な発想であり唯物論的な観点なのだと、理解している人はまだ多くない。
弁証法的な発想・唯物論的な観点は、当然の問題意識として歴史的相対性を踏まえることになるから、この哲学(=ものの見方考え方)は弁証法的史的唯物論と呼ばれる。
実際に科学や技術の各方面では実践されている観点なのだが、この名称を拒みたい人たちが少なくないから、反知性・反科学が跋扈する。
だから、人間とは「こういうものである」という絶対的な命題を求めたがる人々と、「こういうものになる」という発展性を見ようとする人々とでは、考え方に大きな差が生まれることになる。
さて、「ニッポンジン」とは? 「こういうものである」か「こういうものになる」か。歴史的にはどうだったか。