ブラジルの叔父さんが死にました。筆者の母の弟です。この叔父は、ブラジル政府がその昔、日本と合弁で立ち上げた製鉄所の研究所所長をしていた人です。この人の大学授業料捻出の為に、家族は、随分苦労しました。その後、家族間の確執を作った原因になった人でもあります。なんせ、1ドル360円時代の1960年代にアメリカの大学院を出たんですから。
叔父は、4人兄弟(姉、姉、兄)の一番下です。父親(筆者の祖父)は、既に亡く、母親、そして2人の姉と1人の兄が彼の大学資金を捻出しました。日本の大学を出ただけでは、飽き足らず、アメリカでどうしても大学院を出ると主張し、母親を説き伏せました。まだまだ、日本が貧しかった頃のお話です。
で、どうやって、天文学的留学費用を出したか?
母親は、手に職もないので、下宿屋を営みながら、小さい駄菓子屋を経営。近所の人たちがやっていた頼母子講に参加。この頼母子講というのは、参加者が決まった金額を積み立てて、必要な人がそこからお金を借りるというものですが、借りた後は、大変。その分を返済するまで、次回は、借りれない。それでも、必要だからとお願いして、また、借りて、借りて、借金ばかり。まあ、私営のサラ金みたいなもんです。
成績の悪かった兄は、大学進学を断念、その頃、全盛だった捕鯨船に乗りました。これは、お金になりましたが、ほとんどは、弟の学資行き。悲しい。姉2人は、ひとりは教員、もうひとりは、公務員になりましたが、お給料は、ほとんど、弟の学費。それだけじゃ足りなくて、カマボコ屋でもバイト。(カマボコ、と言うのがちょっと可笑しい。)結婚後も、この学費工面から、逃れられず、母親の背負った借金返済の一部を割り当てられました。(こんな条件のふたりと良く、結婚したなあ。。。)
だから、借金返済を割り当てられた筆者の家も火の車。(筆者の母親がこの借金家族の長女)市役所で、都市計画の図面を引いていた父親は、薄給。地方公務員は、安月給でしたからねえ。父は、仕事が終わって帰った家でも、内職の図面引き。どなた様もご存知の地図を発行している会社の下請けとして、地図を描いていました。芸は身を助く!(筆者は、実際覚えてませんけどね。)
でも、それだけじゃあ、到底、足りない!我が家の食卓に乗るのは、捕鯨船に乗っている叔父が山のように持ってくるクジラ肉ばかり。朝も夜も、来る日も来る日も、刺身、赤身、ベーコン、おばいけ、ありとあらゆる部位のクジラ肉に攻め立てられました。幼児でしたが、この頃の記憶は、トラウマとして残り、今、贅沢とされるクジラも全く、食べる気がしません。もう、臨界点まで、食べ尽くしました。捕鯨船団が解体された時、ホッとしたのを覚えています。これが我が家の貧乏伝説。
家族中を借金地獄に陥れた叔父は、卒業後、日本に戻らず、先輩に誘われて、アメリカから直接ブラジル行き。家族への恩返しは無し!来るのは、『ブラジルの女の子は、凄く綺麗だ!』という能天気な手紙ばかり。それで、捕鯨船の叔父がキレまくって暴れるんですけど、そのお話は、また機会があったら、書きます。ああ、無情!いやはや。
60年代にアメリカ留学をするのがどんなに大変だったか、ちょっとお分かり頂けましたか?ブラジルの叔父さんは、家族を犠牲にして手に入れた人生、どうだったんでしょうねえ。いい人生だったのかなあ?
父方にもフランス留学をした人がいます。これは、父の伯父さん。どうも、おじさんというのは、どこの家でも曲者ですねえ。こちらは、戦前のお話ですから、借金を作ることなく、代わりにフランス人のお嫁さんを連れて日本に戻りました。良かった、良かった。だから、父には、ジャックさんと言う名前のハーフの従兄弟がいました。父もジャックさんも鬼籍に入りましたけどね。
叔父の頃と比べると、為替も円高になりましたけど、それでもアメリカの大学の授業料は、決して安くないです。州立大学でも、1年授業料や寮費とか入れると3万ドル(320万年くらい)かかりますし、私立ならその倍はかかりますからねえ。
『叔父さん、仏前にアメリカから贈った白の胡蝶蘭、気に入りましたか?そっちの世界に先に逝ってる人たちに、きちんと学費の捻出のお礼を言って下さいね。』
その高い授業料をどうやって捻出するかのお話は、次回に。