4歳のボクは、大きなスーパーの中で泣きじゃくりながら立ち尽くしていた。

目に入るのは見知らぬ足ばかり。

母を探してあたりを見回すけれど、どの方向も同じ景色に見える。

胸が締め付けられて涙が止まらなかった。

そのとき、いつもの化粧品売場のお姉さんが現れて、ボクを保護してくれる。

「あらら、また迷子になったの」

と優しく笑う彼女に手を引かれながら、化粧品売場で母を待つ。

ボクは迷子になれば、いつも化粧品売場のお姉さんに保護されるので、母は化粧品売場に必ず顔を出すからだ。

そして、待っているのはお決まりの母の怒号だ。

それでも懲りずに同じことを繰り返してしまう。

振り返ってみれば、泣くことには明確な目的があった。

自分ではどうにもできない状況を解決するために、誰かの同情を引き、何とかしてもらおうとする手段だったのだ。

大人になった今、そんな幼少期の自分を思い返すと、嫌悪感が湧いてくる。

言葉で伝えられないことを泣いて訴えるのは甘えだと感じるからだ。

そして、その甘えは今でも自分の中に少し残っている気がして、だからこそ余計に嫌だと思ってしまう。

自分の子どもには、そんな甘えた性格になってほしくない。

だから、喋れる年齢になったら、泣くだけでなく、できるだけ自分の言葉で「どうしたいのか」を伝えさせるようにしている。

言葉にするのは難しいかもしれない。

でも、伝えたいことを言葉にする力があれば、誰かに頼るのではなく、自分の力で乗り越えられると信じている。

仕事でも、他責思考の強い人にストレスを感じることがある。

それは同族嫌悪なのかもしれない。

自分自身がそういう人間だったからこそ、その姿に自分を重ねてしまい、嫌悪感がつのるのだろう。

そんな部分を含めて、子どもの頃の自分を完全に好きになることは、なかなかできていない。

それでも、その経験があったからこそ今の自分がある。

泣いて訴える甘えた自分がいたからこそ、言葉にして伝えることの大切さを学べたのだと思いたい。

そして、いつか過去の自分を許せるようになっていきたい。