2/2。

告別式はお昼からですから、朝も早くに病院にいる母を迎えに行きました。喪服を会場で着替えるのは大変なので、病室で喪服に着替えて(周りの方に見えないように気を遣いました。病院ですしね(;゚ロ゚)

葬儀社の方では車椅子をレンタルして貰っていました。介助があれば多少足を引くくらいで歩けるのですが、なんといっても葬儀社との打ち合わせ中に倒れたばかり。

 

葬儀社に行き、ちょうど親族も来た時間で、叔母2人と母が抱きあって泣いていました。

ここでも

「○○ちゃん(私)、いいダンナさんもらったわねぇ」

と賛辞の嵐(お茶を入れただけで、人好きのするダンナのぽへらーっとした人相が受けたのでしょうか(笑)

「そうなのよ、優しい婿殿なのよ、○○が気が強いからちょうど良いわ」

母さん?もしもし?(笑)

 

母はお棺の中の父と対面しました。亡くなった時には泣き続けていた母ですが、静かな顔です。でも、触れるのは嫌がりました。きっとまだどこかで父の死を受け止め切れていなかったのだと思います。

 

なにせ、私は一人っ子で、手が足りないことがたくさんありました。告別式前に流すBGMとか、葬儀社のTさんに任せて、Tさんは父がサッカーをしていたことを知ると、近くのスポーツ店でサッカーボールを買ってきて、OB達の寄せ書きを作ってくださったりしました(こういう細かいところまで気が回らないのでありがたかった)

 

告別式も、かなり多くの方がいらっしゃっていました。予定では30人くらいだったのですが、お通夜と併せて延べ300人くらいの方に参列して頂きました。この日も受付はOBの方がしてくれて有り難かったです。お通夜に引き続き、あちこちに挨拶をして回ります。母の所にもOBの方々が集まってお悔やみを伝えてくれていました。

喪主の挨拶は、ネットで調べまくった例文をアレンジして話しましたが、代理とはいえ人が多い!緊張する!

なんとか読み終わって良かったです。

今日の従兄弟は、それこそ赤ん坊の頃しか知らないような従兄弟が来てくれました。30歳を過ぎている?

ええ?!叔父や叔母と30年も会っていなかったのか?と時の流れを実感しました。

 

お棺にお花を入れて、出棺です。私と母は霊柩車に乗り、他の親族やOB達はマイクロバスに乗りました。火葬場が都内で、結構距離がありましたが、民間の施設なので綺麗な所でした。

ご住職の息子さん(副住職)はここまでご同行してくださいます。火葬炉の前で読経をして頂き、本当に父とは最期のお別れ。私は「お疲れ様でした」と告げ、頬に触れました。母はやはり顔を見ただけでした。

火葬が終わるまでは1時間ほどかかります。

来てくださった方には軽食や飲み物をお出しして、私は葬儀社の方と精進落としの打ち合わせ。献杯を誰にやってもらおうとか、やはりのんびりする暇はありませんでしたが、母のことは親族がずっとついていてくれたので有り難かったです。

その間にお会計もあります(火葬場は当日払い、飲食も含め)

 

そしてお骨上げをするのですが、今まで祖母とダンナのお母さん女性の経験しかない私は、男性のお骨の太さにびっくりしました。

職員さんが喉仏などの説明をしてくださいます。がんに侵されていたのに、真っ白な綺麗なお骨でした。

その後、精進落としで総勢30人ほどで近くのお店に行き、父には陰膳を、私達はお話をしながら食事をしました。

OB達はあとでいくらでも会えるので、そうそう会うことのない叔父叔母や、従兄弟達と懐かしい話をたくさんします。

「○○が亡くなったことは悲しいけれど、こうやって従兄弟達とまた会える機会を作ってくれたんだね」

と叔父が言った言葉が耳に残っています。

 

そしてマイクロバスで再び葬儀場へ戻り、お清めをして頂いて、お世話になったOBや親族に挨拶をして、私はダンナと母を病院に届けました。

お通夜には参列させず、告別式のみの参列にした私の判断ですが、親族もOBも賛同してくれて安心しました。

病院では、リハビリ病院への再転院が2月の半ば頃になるだろうことと、主治医のY先生がわざわざ来てくださって

「亡くなった旦那さんのためにも、早く元気になろうね」

と母に話してくださいました。

 

1/29~2/2

わずか5日間で、父の死、母の緊急搬送、父の葬儀。

 

まだコロナの影響があまりなかった頃の出来事です。もし父が1ヶ月遅く亡くなっていたら、葬儀も行えたかどうか分かりません。

亡くなった悲しみはもちろんありますが、あんなに多くの方に賑やかに見送って頂いて、賑やかな席が好きだった父を無事に送り出せて良かったです。

 

そして、ヨレヨレくたくたの私は、ダンナに手をついてお礼を言いました。

しかし、我が家の怒濤の2月はこれが終わりではなく、始まったばかりなのでした。

 

父が亡くなって翌日、Y総合病院へまず赴きました。

リハビリ病院は再度入院するために待機しなくてはなりません(長期入院が多いので空き待ちになる)その手配をソーシャルワーカーのHさんにお願いして、検査の所見を改めて聞きました。

てんかん発作の検査は今のところなくて、脳幹からの出血もなく、過度の疲労とショックから気を失ったのだろう、という前日と同じ所見でした。

ここで、私はひとつの決断をします。

「お通夜は母には参列させず、告別式に備えてもらう」

ことでした。

何しろ、明日が既にお通夜、の状態で、無理をさせたくない。

これを母に伝えたところ、はじめは難色を示していましたが、結果的に「最期のお見送りのために」と説得しました。

 

さあ、ここでのしかかってくる「施主代理」

実は、親戚と、OBの中でも一部にしか知らせないつもりだった父の訃報ですが、これがそううまくはいかず、結構広まっていました(誰が悪いとか、ではない)父は教職に就いていたのとかつての勤務先が近いのと、関係者が多かったことで知られたのだと思います。

親戚は、父の実兄夫妻とその息子夫婦、実弟夫妻とその子ども、実妹は闘病中なので、2/1の昼間に顔だけ見に。

 

OBの方々の中から、お通夜と葬儀の受付を出してくださると言うことで、火葬場まで参加されるのは15人くらい(結局、俺も行きたい!と続出した(笑)となり増えたのを謝られましたが、感謝しています

2020年というと、コロナ感染症がちらほら言われていた頃だったのですが、まだマスクをしてね?くらいだった頃です。

 

母を説得してから葬儀社に行き、最後の打ち合わせ。

仮見積書を出してもらって、金額を確認します(もちろんお支払いは後日落ち着いてから)

○お香典返しなどは、多めに用意して貰って使った分だけ請求

○お通夜のあとの会食は人数がだいたい、でいいが、翌日の精進落としは人数ははっきりしてもらいたい

○お寺様へのお布施(これは戒名代込み)→当日払い

○遺影にする写真

※これがみつからなくて、本当に困った。結局父のOBの方の写真から探して貰い、ちょっと照れ笑いしたような素敵な写真を遺影にしました

○遺影のお写真の額選び

 

もうね、未知の世界過ぎて、OBの方や葬儀社の方に何度「不勉強で申し訳ございませんが・・・」の枕詞を言ったことか(笑)

でも、OBの方々は当時60代後半の方が多く、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、なんだからどんどん聞いて!!」と言われました。

さすがは運動部OB、気持ちのさっぱりした方々が多いです。

 

2/1

昼に病院に行き、「今から行ってくるよ」の報告を母にして、葬儀場へ行きます。

父が安置されている和室でお線香を上げ、エンゼルメイクをした父と会います。本当に穏やかな顔でした。

午後には、父の実兄、実弟ご夫妻が来られて、控え室に案内します。

母の不在は既に伝えてあって、供花などを出して頂きました。供花は喪主も出すと初めて知った私。母の名前で1台、私とダンナで1台、親戚で一対、OBで1台、あと、父の務めていた学校などから頂きました。

生前、父と電話で大げんかしてしまった叔父(これは本当に言葉の行き違いで、当時精神的に不安定だった父が曲解したと思う)は、父の安置されている所で、お見舞いに来るはずだった1/30に亡くなってしまったことを大変後悔していて

「おい、○○(父の名前)順番が違うだろう!」

と。父と叔父は8歳差なのでかなり年上なんですね。

「兄貴、もっと会えば良かった」

父の弟も、泣いていました。

 

はたと、ここで気付く私。叔父や叔母に会うのは実に数十年ぶり(;´Д`)

私の結婚式は両親と友人数人でしたので、叔父叔母に会っていない。

「お久しぶりです」

なんて、みんなで控え室でお茶を飲みながら笑いました。もちろんダンナは初対面。前の日には父方の家系図を書いて説明しましたよ(笑)

いやぁ、喪主(代理)って本当に大変です。

親族とのやりとり、葬儀社に呼ばれる、OBの方々との打ち合わせ、お寺様へのご挨拶、座っている暇がない。

夕刻、「納棺の儀」を行い、父のOBの方、親族の男性、旅装束を着せるのは女性、と分担して、納棺しました。そして、お通夜を迎えるのですが、この時は喪主挨拶はありません。

 

お通夜開始の前には従兄弟たちとも数十年ぶりの再会。

一番近い年の従兄に会ったときには、思わず「○○くん!!」と頼れる兄貴を見つけたような気持ちになりました。

いや、ダンナに頼れ(心の声(笑)

 

お通夜は、予想していた人数の2倍近くの方がお越しになられまして、スタッフさんも大慌て、私もビックリ。まさか退職してずいぶん経っているのに、あんなにいらっしゃるとは思わなかった(;゚ロ゚)

お通夜のあと、OBの方や親族、父の大学の同期の方など、食事を用意していたのですが、足りなくて、葬儀社の担当だったTさんも大慌てだったようです。

が、さすがに大きな葬儀社なので、慌てていても不備は全くなく、無事にお通夜を執り行うことが出来ました。お通夜のお坊様はご住職で、翌日の告別式はご住職の息子さんが来てくださることになっていました。

電話で父のことをいろいろ聞かれ、授けて頂いた戒名なのですが、お坊様ってあれだけの会話で戒名をつけられるんだなぁ、と尊敬をしました。

 

さて、喪主代理の私がバタバタしている間に、ダンナは何をしていたのでしょう?

「○○ちゃん、いいダンナさん貰ったねぇ」

と親族一同に褒められました。

 

「何かしたの?」

「いんや、喫煙所でおじさん(父の実兄)と喋ったり、お茶を入れたりしてた」

「・・・」

 

「そうなんですよ、気は利かないんですけれど、優しいんですよ(*゚∀゚*)」

と吹聴しておきました。自分の選んだ夫ですからね、そりゃ褒めますわよ(笑)

 

大幅に人数が増えて慌てたりもしましたが、父が多くの方に悼んで頂いている、と思い、感謝しました。無事にお通夜を執り行い、翌日に備えます。

告別式では母の代わりに私が挨拶をせねばなりません。原稿を調え、お通夜の夜は更けていきました。

冬の冷たい空気の中、父の実兄と実弟に連絡をし、病院内に戻ると、Sさんとダンナが母に付き添っていてくれました。

「おじさんたちに連絡をしたよ」

と伝えると、ありがとう、と返事。その後、父の顔を見に病室へ行くと、軽く薄化粧をしてくださっていました。病院内で亡くなるとお着物を着せてくださいます(勿論代金は発生します、確か¥3,000くらいだった気が)

それが朝6:00くらいの出来事で、私は看護師さんに呼ばれました。

 

そう、葬儀についての説明です。

私は生まれたときには既に父の両親、母の父親はもうおらず、母の母親(私からしてみれば祖母)は私が20代の半ばくらいに亡くなり葬儀に行っていますが、「取り仕切ったこと」など、今までありません。

ダンナのお母さんが亡くなった時には、祖母が亡くなった時の父の行動を思い出していました。家では縦のものを横にも動かさないような父が、祖母の葬儀では裏方でひっきりなしに動いていたことを思い出します。と、葬儀についてはこれくらいしか体験していない。

○病院から葬儀社一覧を渡される

○なるべく実家に近い所を探す

○少し落ち着いた母に相談する

最愛の夫を亡くして、なおかつ病気を抱えている母は昨夜殆ど寝ていません。でも、葬儀社リストの中からひとつ、母の友人の旦那様が亡くなった時に参列した場所で「とてもよい葬儀だった」と記憶していた、実家から車で10分ほどの葬儀社を選びました。駅からも徒歩5分という立地もあり、K社さんにお願いすることにしました。

 

その時6:30。

葬儀社は24時間営業でした。すぐに電話がつながり、病院名とお迎えの時間を聞かれます。

主治医のS先生と、ソーシャルワーカーのFさんが出勤する時間が8:30だったので、9:00にお願いできるか?と尋ねると、その時間なら間に合います、とのこと。わりと大きな葬儀社でした。

OBのSさんは、昨夜からずっとついていてくださいます。

「学生時代、教員だったお父さんにお世話になったから、僕にとっては兄貴のようなもの。気にしないでね」

と言ってくださいました。

その間、Sさんと母に軽食を食べてもらい、ダンナは「好きな物を買いなさい」とお金を渡し(笑)私は葬儀社との連絡や、病院とのやりとりをしていた記憶があり、ダンナに「食べなさい」とおむすびを口に放り込まれた記憶が・・・(;゚ロ゚)

 

ハッキリ言って、親孝行をしたか?と問われると、大学卒業後、好きなことを仕事にして、好きな仕事でフリーランスになって、結婚はしない、と長く実家にいて、うっかり結婚をし(笑)

なんなら、親孝行は「結婚をしたこと」くらいだなぁ、なんてダンナの顔をぼーっと見ながら思っていました。

 

8:30頃、ソーシャルワーカーのFさんが病室に入ってきて、まず母を気遣ってくださいました。

このFさんには本当にお世話になっていて、父もFさんのことが大好きだったようです。こちらが食材を渡すと、とても美味しいお料理になって返ってくるような思考能力、暖かい言葉、とても感謝しています。

すぐに主治医のS先生がやってきました。このS先生、いつもはむすーっとしているのですが、決して失礼というわけではなく、臨床医よりは研究医肌?と思ったこともあります。約1年間、父の主治医をしてくださった先生の目に、うっすらと涙が浮かんでいて、私、びっくり。

人は見かけで判断してはなりません。

「S先生、Fさん、ありがとうございました」

お礼を言い、K社さんが来てくださったので、病院を後にしました。亡くなったあとに通るルートが決められていて、地下(だったかな?)の不思議な空間を通って、父を葬儀場まで搬送して貰うことになりました。

なんといっても、そこから葬儀場までは車で2時間ほどかかります(朝なので幹線が渋滞する(;゚ロ゚)

 

その間、母のリハビリ病院に連絡したり、母は自分の親族に連絡をしたり、バタバタと過ごして、葬儀場に到着しました。

ここで、打ち合わせの前に大事なことを思い出します。喪服がない!いや、あるんですけれど、私もダンナも結婚後少しふくよか(良い言葉で言うなら(笑)になったので、サイズが合わないんですね。

葬儀の打ち合わせは、お昼過ぎから、ということで、OBのSさんとその息子さんに母を任せて、近くの百貨店でお買い物をしました。この際一式そろえてしまえ、と私の喪服、バッグ、靴、装飾品、ダンナのスーツ、靴、ネクタイ、しめて30万円なり・・・いや、仕方ないです、こればかりはいいものを買うとそのくらいします。

 

昼過ぎからSさん、Sさんの息子さん、私、ダンナ、で葬儀の打ち合わせに入ったのですが、当事者になったことのない私は、初耳だらけ。

Sさんが「葬儀社の言うなりになっているとものすごく金額が上がるので、気をつけるように」とアドバイスを頂きました。

 

大事なのは、火葬場が空いているか?で、市の火葬場は7日待ち、民間なら2/2にスケジュールが取れるということで(値段は4万円くらい違う)

2/1にお通夜、2/2に葬儀から火葬、とスケジュールを決めます。

何度か休憩を挟みながらの打ち合わせで、

○祭壇のグレード

○お棺選び

○お衣装選び

○お骨壺選び

○お通夜後の会食の手配

○お香典返しの選び

○火葬場へ行く人数と、そのあとの精進落としの手配

 

もうね、これってくらい、やることと考えることがある。決定権は母にあるので、母と一緒に選びました。

そして、休憩を挟みながらの打ち合わせ中、午後3:00くらいだったでしょうか。

 

私の横にいた母の体の重みが、私の肩にかかりました。

「あっ!!」

気を失ったんです、母。

 

「すみません!!救急車を呼んでください!!」私

 

幸いなことに、意識は取り戻したものの目の焦点が合っていなくて、脳幹血腫が大出血したら命に関わるので、葬儀場に来た救急車

(ものすごくシュールな絵面だった(;´Д`)

 

救急車は10分くらいで来てくれたのですが、これがね、問題でね、

1/29に母はリハビリ病院に転院しているので、本来はその病院に搬送しなければならない→しかしリハビリ病院には脳外科の専門医はいない→Y総合病院とAリハビリ病院のソーシャルワーカーさんが連絡を取り合い、リハビリ病院を急遽退院扱いにしてもらう→Y総合病院(昨日退院したばかりなのに(;゚ロ゚)に搬送。

 

葬儀についての打ち合わせはある程度は済んでいたので、また夜に来ます、と告げて救急車に乗り込みました。私は寝不足とビックリでパニック発作を起こし、ソラナックス早く効いてくれ!と思っていました。

あの時は、本気で、葬儀を2つしなくちゃならないかと思いました。

 

搬送されたY総合病院では、幸いなことにY先生がいらして、即入院。ただ、懸念していた脳幹からの出血はなく、てんかん発作かも?と検査をしてもらいました。

「ごめんね、ごめんね」っていう母に

「そんなこといいのよ、休んで」

と言うだけで精一杯。昨夜からの寝不足で、気を失ったのだと思います。

 

ここで、私はY先生から、「いますぐに命に関わる所見はない」と言われ、安心しました。いやですよ、早朝に父が亡くなったばかりなのに。

病棟の看護師さんに、父が亡くなったことを周知して頂いて、葬儀社に戻り、打ち合わせを再開します。

Sさんと息子さんは帰宅していて、OBの方々の参列人数などを確認して頂いていました。

何しろ、1/30→父が亡くなる、母が救急搬送、葬儀社との打ち合わせ

中1日で2/1と2/2のお通夜と葬儀についてきめなくてはなりません。

その時には、お寺様も手配して頂いて、戒名を決めるためのお電話も頂いています。宗派だけでも知っていて良かった、と思いました。

父はエンバーミングをお願いしていたので(今から思えば必要あったか?と思いますが、綺麗なお顔だったので結果的によしと思っています)、一度違う場所に移送してもらっていたので、その日はかなり遅い時間に自宅へ戻った私とダンナ。

くたくたヨレヨレの状態で、翌日の母の病院に行くことと、葬儀社へ行くスケジュールを立てました。