得体の知れないものを警戒するのは至極普通の思考回路だが、それが強いとエゴイストになり兼ねない。潔癖症の心理は、自分やその身辺のみを清潔とし、それ以外を蔑んでいるということなのだろうか。自分の屁や耳垢、鼻糞に興味があっても、他人のそれを忌み嫌うのは改めようと思う。もしくは自分のそれすらも嫌うとか。

電車の中で、年老いた男性が一心不乱に鼻をほじっていた。金塊を探り当て、外界にさらして指で丸める。それを許すか、もしくは自らもほじるか。

公共の場の認識は人それぞれの価値観により、あたかも一般論であるかのように持論を展開する気はない。常識すら、僕には曖昧だ。ただ凝り固まることだけは避ける努力をする。男であるがゆえの視点だが精神的苦痛は肉体的暴力と同等で、他人の鼻糞などいわばデコピン程度の打撃であり、良しとする。

雨月物語田舎の百姓暮らしは常に苦しい。時は戦乱で治安も悪い。金が人を変えると宮木は言う。その夫の源十郎は陶器で商いを始め、それが当たって執着心が出た。源十郎の妹・阿浜も今の生活に満足していない。阿浜の夫・藤兵衛は都で武士となって一旗上げることを夢見ていた。宮木の憂いは彼女の犠牲によって消える。その最期は長回しで、襲われてなお家路に歩みを進めようとする彼女にカメラは寄ることなく、逆に引いて奪った食糧を漁る盗賊を遠目に映した。スクリーンはかくも立体感を得る。

溝口健二の遺作「赤線地帯」を先に、しかも割と最近見たばかりのため、京マチ子に対する蓮っ葉な娼婦というイメージが拭えず、若狭が同じ女優と捉えられない。その妖艶さは、彼女が画面に登場するだけで、描かれた世界がいかがわしくなり、幻想的な光景になる。モノクロの、強い陰影が彼女を浮き彫りにして、まるで発光体のようだった。

若狭に導かれた源十郎は辛くも現実へ戻ってきた。故郷に帰り、もぬけの殻となった我が家に入る。ぐるりと一周する彼をカメラは追い、パンして再度、扉をくぐるとそこはまた現実ではない世界で次は宮木に導かれる。身の丈を知り、見合った生き方をすべきであると、ファンタジーのコーティングをかけて説く。

一人っ子の僕は甘やかされて、今でもブンレツさんに買い与えられている。またラックをもらった。というかラックしかもらえない。

捨てられず片付けられず ものは増えて乱雑になる一方である。たとえ掃除しても狭く見えにくいところに押し込み、山を作るのが関の山で根本は常に解決しない。与えられたラックもそれぞれ使い道に意図があるのだろうが、それを理解できず、どう使用していいか迷い、衣類やら書類やらがその中に混ざって入るだけ。大いに欠落している部分だ。片付けの仕方が分からないということが分かった。これを進歩として足の踏み場を探しながら満足する。

渋谷ジャック 練習会を兼ねてエクストラ・ラウンドがおこなわれた。好意がありがたい。反復練習で体に沁みこませることが大事である。

その後、渋谷の街に繰り出して西武前でセッション。野外で叩くことがこれほどまでに心地良いとは。雑踏の中、立ち止まって見てくれる人もいた。ブレイクを仕掛けたくて仕方ない。もっとリズムを覚えたい。もっと皮を張って良い音を出したい。もっと上手くなりたい。はりきりすぎて掌の内出血の面積が過去最大を記録する。シーズンオフでバットを振り込む若手野手のよう。

モード家の一夜敬虔なカトリックの主人公は日曜日のミサで若いブロンドの女性と目が合った。教会を出てからもバイクに乗った彼女を車で追う。後日、彼は旧友のヴィダルと偶然の再会を果たした。パスカルから宗教や哲学まで議論し、彼の友人のモードの家に誘われる。

タイトルの通り、映画はモード家の一夜でほとんどを占めた。半分は割いただろうか。男女3人の会話はウィットに富んだユーモアが満載である。そのシーンで全員がフレームに入ることは稀で、長いカットの中で全く映らない人物はその声と、写っている人の目の動き、レスポンスで想像させた。

翌日、教会での女性を町で見かけ、声をかけた。名をフランソワーズという彼女と親しくなり、ここでも対話によりエスプリを見せる。愛人がいた夫と離婚したばかりのモードと彼女に思いを寄せるヴィダルと、フランソワーズが窮地の仲だということが発覚し、主人公の男がついた嘘もまた粋。

偶然の再会は僕自身も果たす。1年ぶりの友人に会った。正確には友人の友人で、二人で会ったことはなく、こういったシチュエーションでエスプリの効いた会話ができることがこれからの課題である。

いとこ同志シャルルとポールのいとこ二人は同じ大学に通う間柄ではあるものの、スタイルもスタンスも正反対で“どうし”とするなら同志よりも同士だと思われる。しかし彼らは仲が良く、互いが大事に思っていた。

そういった描写ばかりだったということもないのに、シャルルは日々勉強に、ポールは日々パーティに費やしている印象を持つ。観客は当然シャルルに肩入れするだろう。地道に努力した人間は報われ、享楽主義者は最終的に痛い目を見る、アリとキリギリスのようだったら救いがあった。しかし要領の良し悪しは貫かれ、世の中は得てしてそういうものだと痛感させられる。

鼻持ちならないポールの友人たちの中で三十路越えのクロヴィスが異彩を放っていた。若者に混じり、仕事もせず、放蕩生活を送る。黒人を侮蔑するところが彼らの差別主義を端的に表している。人生を舐めきってしかしそれがまかり通り、いつの時代でも不条理は普遍だ。

クロヴィスがそそのかし、シャルルが愛するフロランスとポールが触れることで交わるシーンは、あり得ないシンパシーだと分かっていても納得させられるクロード・シャブロルの手腕。ヌーヴェルヴァーグ、カイエ・デュ・シネマ派で彼の作品は未見だったが、辛らつな視点はやはり新しい波たるゆえんか。

静電気が例年に比べて半端ではない。閃光も見飽きたが、ドアノブを握る度にびくついている。防止グッズを検索したが、効果はどれも疑わしい。どれだけ軽減されるのだろう。

なぜこの冬に限って帯電しているのか。これまで人と接触してチクッとくるのは時折で、改札口は意識を集中して気合を差し出せばバチッとこなかった。老いて電気を蓄えるという話も聞いたことがない。これが恋の一閃に変換されればいいのに。

駅周辺に路上駐車をしようとして辺りを見回していると、ブレイズがきまっている女性と目が合った。学生の頃、同級生に7回告白したことがあって、ことごとくふられたわけだが、その女性に似ている。すれ違いざま、勢いよく振り返ったためにハンドルもそちらを向いて転びそうになった。彼女のほうは振り向かず、そんな体裁の悪いところを見せずに済んだ。卒業以来会っておらず、今となっては思い出すことも少なくなり、過去は美化されてただきれいな女性を彼女と勘違いしたのだろう。記憶の中の彼女は当時からさほど年をとっていない。

もしブレイズの彼女が彼女だったとしたら、そう思うと悲しくなった。付き合うに至らなかったにせよそれなりに印象づけたはずの自負が、振り返らなかったことで覆されることになる。他人に影響を及ぼすというとおこがましいが、誰かの中に自分を留めておきたい願望はある。金も名誉もないだけになおさら強いのかも知らん。他者がいることで主体性を維持し、僕はここにいる、もしくはここにいたという証明を、マーキングする犬のように僕は示し続けるのだろう。たとえブログが滞っているとしても止めるわけにはいかない。自分のために。

そう自分のために。結局は己のことしか考えていないのであれば影響力などたかが知れている。そういえば7敗を喫した彼女は自立した女性だった。mixiで検索するのはかなりダサい部類に入る。

おじさん天国不眠と無職を貫く叔父も、ダイオウイカを釣ることに心血を注ぐ甥も、そのだめっぷりが愛らしい。悪夢を恐れ、オロナミンCを手放さない高山たかしは睡魔に襲われるたびに勃起し、出会う女とやりまくってはその最中、背中に自分の名を油性ペンで記していた。ナイスカンパニーの久米水産で働くハルオにも、釣りのかたわらで眺めてくれる女がいる。たとえ見事にだめ人間でも魅力があれば女にこと欠かない。

とりたてて何もない町で他愛もない日々。いまおかしんじ監督作品でこれは一貫しているように感じる。切り取るまでもない日常の中に見出すもの。また、そこに笑いと異質な世界を盛り込んで描くこと。深いようで、たとえばイカに何かのメタファーがあるのではと、それ自身は生殖器なのか、吐き出す墨は精子なのかなどいろいろ張り巡らせたが、物語はなにごともなかったかのように日常へ戻った。

説明的な描写は一切ない。無駄をそぎ落として、あるのは淫らな絡みとあほらしいやりとりで、それは娯楽の極みでもあるかのようだった。藍山みなみの素晴らしい太ももに欲情しつつ、下元史朗が扮した高山たかしの飄々とした生き様に笑う。

本編の後に「南の島へダイオウイカを釣りにいく」を併映。小笠原諸島の父島へいまおかが単身で乗り込み、ダイオウイカに挑むドキュメンタリーは、深みを完全否定する底の浅さを見せつける。原始に立ち返られるのであった。妙に上手い竿さばきと性的欲望、反復に腹を抱えた。

「人は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」という一線を退く際の名言を知ったのは、萱野茂が亡くなってからだった。虐げられて養われた誇りから生まれたと思われる言葉に、尊敬や憧憬があるもののぬるま湯に浸かってしまっては残念ながらフォロワーになれない。

アイヌの弦楽器トンコリをフィーチャリングして対極のようなジャマイカとの融合は郷愁のダブ。およそ故郷の概念がなくてもグローバル化すれば全てが還る場所になる。


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