一人っ子であることと、一度家を出てまた同居したことと、両親が別居していることと、ボクのために生きてくれた―ボクのオカンというコピーが僕を必要以上に入り込ませた。僕にとって今、考えられうる最も辛いできごとといえば“オカン”の死だろう。いつか来るその日はなるべく遠い未来であるよう願ってやまない。“オカン”にとって僕は全てであり、これまで文字通り心血を注がれてきた。僕にとっても誰より影響を受け、誰より尊敬し、誰より大事な人である。母の強さ、底のない愛、自己犠牲を学び、それを還元すべく模索中。
リリー・フランキーの私小説的ベストセラーの映像化は、2時間超の長尺でも足りないくらいのボリュームだと、読んではいないが推し測る。東京タワーが見える病室にボクこと雅也とオカンがいて、刻一刻と死が近づくオカンを見守るリアルタイムを、幼少時からのフラッシュバックが追いかけ、最後に追いついた。細かいエピソードがいちいち涙腺をつき、鼻水も垂れて、なぜかヨダレまで出ていた。
身近な人間の死や悲しい別れなど、要は今まであったものが失われるということを題材に盛り込めば大体において泣ける。それと良い映画というのは別問題だ。僕の涙など安いものなのだ。
1週間くらい前に切ったばかりで、しかも念入りに根こそぎ刈ったというのに、最も成長の早い鼻毛は外界に出んばかり。伸びる速度は体中の毛の中で群を抜 いているのではないだろうか。とりあえずざっくり切った。
切られたそのスピードキングを鉄砲玉とするならば、太さを誇るワイヤーのような鼻毛は組長とでもしようか。悠然と私腹を肥やし、なかなか表に出ずになりを潜めている。奥のほうで幅をきかせ、無闇にそれを刈ってはまたより太い毛が生えるので、しばらくは泳がせることにする。
アースデイ
ヒロシを持っていった。ジャンベを叩き、イベントを見て、ジャンベを叩き、イベントを見て、ジャンベを叩く。その合間には飲む。代々木公園にはいつにも増して様々な人がいた。浮浪者にじゃがりことポッキーを盗まれて寛容でいられるほどピースな気持ちになる。1歳10ヶ月のハーフの子どもにヒロシを渡す。触ることも怖がっていた彼が徐々に慣れてジャンベをさすり、叩き、とびきりの笑顔を見せてこぼれんばかりの頬さえあれば他に何もいらないのではないかと、彼も将来ジャンベをやればいいのだが。「セッションしてもいいかい」と話しかけてきた男性は歌いだし、娘がその父親の様子を冷ややかに見ていて、彼女も将来ジャンベの魅力を知ってくれればいいのだが。アフリカンや他のジャンベグループともジャム。コネクションはどこまでも続く。
谷という字が嫌い。上手に書けない。どう頑張ってもアンバランスな谷になる。僕の記す谷は総じて垂れ目で口を常に開いて低脳丸出しのそれ。まず1画目の2画目の点が一定しない。妙に背が低い。それを修正しようとすると鼻の下が異様に長くなって締まりがない。大きい口は鼻で呼吸ができないかのごとく、やる気がうかがえない。住所に谷が入るようになってから機会が増えたにもかかわらず上達とは無縁である。どうすれば達筆になれるのだろう。模倣して書いても依然だめで、げんなりした顔の谷を見る度に自分もげんなりする。



