シチュエーションを考慮したアルバムなど持ち合わせおらず、僕のCDストックは独善的な仕上がりになっている。披露するでもないので構わないのだが、いささか協調味を帯びたものも欲しい。夏にうってつけのものを嗅ぎつけた。はせはじむというDJを知らなかったが、長きに渡ってクラブで活躍しているらしい。無人島DJという肩書きが意味不明。曲のタイトルにリゾート地をなぞり、世界各地を周遊した。
友人が秋にイベントを興行するそうで、DJ現象再び。本作に含まれている「4Minutes of Gimmick in San Juan」は確実にフロアを高揚できて、すぐにでも拝借したい。季節が過ぎ変わっても夏チューンを使用するつもりで、結局はエゴイスティックには変わりない。
HASE HAJIMU
定期的にジム
には通っているが、引き締まり具合は停滞している。ここが踏ん張り時だ。シャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしていると、隣の中年男性の怪しい動きが目に付いた。ドライヤーを二刀流で足の指を表裏から当てている。疑いようのない水虫である。帰宅するや否やまたシャワーを浴びた。
僕はアトピー体質で、幼い頃に比べると幾分ましにはなったが、汗をかく夏には症状が出る。首周りの肌はまるで象のような質感になる。これでさらに水虫にでもなって、足先までやられると過酷だ。
汗といえばかなり多汗なほうで、この季節タンクトップでうろついてふと脇に手をやると、確実に湿っている。いくら拭き取っても出るわ出るわ、脇の湧き水。願わくば、猫型ロボットの里親が好きな女の子並にシャワーを頻繁に浴びたい。
たまゆら ROCK FESTIVAL 2005
今までここでは友人として書いてきたが、ややこしくなるので朋友とするとして、その朋友の知人(もしくは朋友の友人)が手作りフェスティバルを企画している。僕も3度ほど面識のある知人(正確に言うと朋友の知人もしくは友人)も数名出演しているようで、すこぶる楽しげである。
そういえばその朋友がバンド結成を持ちかけてきて、面子には誰も経験者がいないのに、僕はベースだ君はドラムだ目指す音楽はあれだこれだと夢を膨らませた。DJとしてでもバンドとしてでも、このようなフェスを催したり出演したりするのは理想郷ではあるが、腰が重かったり徳がなかったり持て余したりで、ただ指をくわえる。
巨人との札幌2連戦は圧勝に終わった。気分良くススキノ三昧でさぞ楽しかろう。上原と工藤で星を拾えなかった巨人はこれで終戦か。
打線が活発になった。特に福留が走攻守で目立つ。できれば3番に据えたいのだが、落合監督に期するものがあるのだろう。幸い立浪も帳尻モードに突入し、おかげで連続の2桁得点。調子を落としていた井端や谷繁にも当たりが戻ってきた。連日で投手の調整登板もできて追い上げ体勢万端である。とはいってもこの差は無理かも。
小学生のヤンヤン、その姉ティンティン、父NJ、母ミンミン、祖母という一つの家族を中心に、くさぐさの世代の葛藤を切り取る。監督のエドワード・ヤンは「恐怖分子」のオープニングにも見られるように群像の描き方に長けている。
ミンミンの弟アディの結婚式で、様々なことが起こった。彼の元恋人が現れて修羅場を迎える。NJも会場で若い頃に付き合っていたシェリーと偶然再会する。祖母は具合が悪いと言って式の途中で帰り、その直後に脳卒中で植物状態となる。医者はなるべく彼女に話しかけるようにと、それから家族それぞれは答えない祖母と対話するようになった。
祖母が倒れたことに自責を感じている高校生のティンティンは泣きながら許しを請い、誰よりも意識挽回を願った。マンションの同じフロアに住む同級生と仲が良かったが、彼女の恋人を挟んだ関係がこじれて傷心する。祖母との対話から自らの単調さに気づいたミンミンは鬱となり、導者を求めて山にこもった。住職が家を訪ねてくる。リアリストのNJと信仰を説く住職は相容れない。彼の現実主義はヤンヤンに受け継がれ、祖母に「息子は僕に似ています」と語る以前からそれは見てとれた。ミンミンが留守の間、NJはシェリーと会い、途絶えた関係のやり直しを考える。
映画祭におけるアジア映画2本目は台湾もの。対照美というのか、アディ・ミンミン・NJ各々が三角関係に思い悩む姿をリンクさせる。3時間の長い映画だが、百般が凝縮されていた。コントラストだけでなく、立体的な考え方もしかり。視覚的思考に疑問が生じたヤンヤンは人間の後頭部を写真におさめ、それを当人に渡す。時間の概念にも執着した。「毎日が同じ繰り返し」と言う者もいれば「毎朝が新しく、同じ日はない」と言う者もいる。見所が多い。
期間限定で入ったホスピアから、吐血で病院を渡り歩き、身体能力の著しい低下によって、ブンレツグランマは老人ホームに入居することになった。これは家に戻れないことを意味する。余命が幾ばくもないわけではないが、そこで最期を迎えることになるだろう。老人ホームにもいろいろとあり、費用の安い公立のものは競争率が激しい。しかし幸運にも評判の良い区立の施設に入ることができた。「それは本当に良かった」と安堵の言葉を口にしたが、帰宅の可能性を失ったことで時折苦渋の表情を見せる。どんなことでも良いので生きる糧を探してほしい。来週の火曜日、グランマは引越しをする。
病室の外から他の患者の声が響いてくる。テレビの大相撲に夢中だった。「この関取ももうちょっとやると思ったが、全然だめだな」「そんな不細工な相撲してちゃ三役になれないよ 」覗いてみるとパジャマの老人がネガティブな発言を繰り返していた。せせら笑いながら。僕は30年も生きていない。折り返し地点に達したかどうかも分からない。散り際を頭の片隅に置く。
Royksoppを「暗く厚い雲
」と例えていたら、まさにそんな新作のジャケットでたまげた。僕が、すごい。しかし些細なことを自慢するのに、ブログは何て便利なのだろう。自己顕示欲を満たしてくれる。
寂しげだが温もりも感じさせる4つ打ちは、ノルウェーという国柄をも表現しているようにも感じる。メンバー二人ともいかにも北欧的な顔立ちをしている。顔が体を成す。レジの女の子が封入特典のステッカーを一緒に入れる際「ロイクソップのステッカー」がうまく言えずに舌を噛んでいた。照れ笑いが可憐であり、肩をすくませて笑み返す。あたかも寛容であるように。良く見られたいがために。
- Royksopp
- The Understanding
久しぶりに大相撲を見た。関取個人を応援していたのは渦中の若花田・若乃花以来、今場所からは普天王関
に肩入れする所存。直属ではないが同系列の学校の後輩であることが分かった。初日を飾れず残念である。当人最高位の前頭三枚目で上位との対戦があり、場所前の怪我も重なって厳しそうだ。
取組を見ていると、立会いで変化する力士に対して解説者は厳しい。往なしや交わしは心象が悪いようである。しかしそれも手段の一つ。小兵や非力が勝ち上がるには様々な手立てをしなければならない。がっぷり組むことで腹が満たされるのであれば、ルールの改変でも申し立てればよかろうて。格式を重んじることも伝統美であるが、意固地や錯誤が香る。
女は釣堀を管理していた。湖には小屋舟が転々と浮かんでいる。各々の小屋で情事があり、彼女もまたそこで体を売っていた。そこに殺人を犯した一人の男がやって来た。死に場所を求めているようにも思える。退廃的な二人は相通ずるものを感じ、惹かれ合った。しかし女は男に押し倒されるとそれを拒む。受け入れられなかった男は小屋に娼婦を呼んだ。女はそれに嫉妬し、彼に惚れた娼婦と元締めを殺めた。
時に遠く岸辺から事象を客観的に映し、時に狭い小屋から臨場感を映す。相乗効果で湖だけのロケーションに幅を持たせた。生死が隣り合わせであることを思い知らされた。
釣り針が様々なものを傷つける。男はそれを口に含んで自殺をはかった。女はそれを陰部に入れて、彼が去ろうと乗り込んだボートを繋ぎとめた。釣られる魚にとってもそれは死への道標である。半身だけを刺身として食われて水に還された魚は、男によってまた釣り上げられた。魚を包丁でなぶり殺す彼だったが、その魚だけは包丁を振り下ろせない。痛みを伴って生きる、もしくは生かされる。罪と傷を共有した彼らは刹那の幸福を味わった。しかしそれが続くことはなく、終末を享受する。
ヨーロッパ映画祭を沸かせたアジア映画を選んで借りた。キム・ギドクの作品観賞はこれで4作目になる。相変わらずの秀でた芸術性は観賞であり、鑑賞ともとれる。水面の浮島は、本作から3年後に製作された同監督の「春夏秋冬そして春」の水上寺院にも似ていた。自然に囲まれ、水に浮んだ小さな1個のコスモス。しかしカオスでもあった。

