前回は、「学習には臨界期がある」などと、難しい言葉を使ってしまったので、そのことについて書きます。
私が、「学習には臨界期がある」ということを、明確に意識できたのは、ある講演と、それに続く対談の場にいたおかげです。
その場とは、1999年11月16日(火)東京の日本教育会館一ツ橋ホールでに読売新聞社の主催で行われた「読売フォーラム東京セッション(*1)」でした。
講演者のお一人(*2)が利根川進さん(1987年ノーベル生理学・医学賞受賞)で、ご自身のご経験として次のようなことを話されました。
「娘は私のせいで、日本とアメリカが同居するような環境で育った。周りの人たちは“娘さんはバイリンガルで羨ましいですね”というが、私に言わせれば、言語認識が深まらず、抽象的な思考ができない子に育ててしまったということだ。学習には臨界期がある。今後どんなに学習を重ねても(臨界期を過ぎてしまったので)、娘の思考力がモノリンガルの人には敵うようにはならないだろう。」
実証主義の権化である科学者の利根川先生が、ご自身のご家族のことを話されたのですから、私は重く受け止めました。
「学習には臨界期」があるというのは、ある事柄を学習するには、それぞれに最適な時期、年齢があるということです。あることについて学習する能力が最高に達している時期が「学習の臨界期」です。
一方で、利根川先生は次のようなことも話されていました。
「脳を含めた中枢神経の機能は、筋肉や内臓の機能に比べて可塑性(かそせい plasticity)があり、後天的に与えられる外からの刺激を利用して、自分自身を変える能力を持っています。ここでも教育の重要性が指摘できます。」
教育を受けること、学習することの重要性を強調されていました。
学習には臨界期があることと、脳が可塑性を持っていることがわかると、誕生直後で言葉が分からない赤ん坊に、言葉をかけ続けることや、幼児期の読み聞かせの重要性がはっきりと理解できます。また、幼児期から学齢期初期にかけての、パズルや積木遊び、数遊びも重要なことが理解できます。(学習の臨界期や脳の可塑性を意識していなくとも、人間は経験的にこれを知っていたのですね。)
最後に利根川先生が、「今後の夢」として話されたことを紹介させていただいて終わりにします。言い回しは記憶に頼って書いておりますので、相違しますことご容赦ください。
「自分の人生の選択がこれでよかったのか、悩むことがあります。今、私は、言ってみれば”脳スキャナ”を開発したいのです。この”脳スキャナ”は、その人が何に打ち込めば、その人が持っている能力を最大限に発揮できるか、向き不向きを発見できるというようなものです。」
……… ノーベル賞を受賞された利根川先生に「自分の人生の……」と言われてしまうと、凡人である私は一体どうしたらよいのかと、めまいがしましたが
”脳スキャナ”は、残念ながら開発されておりません。従って、”今は” いろんなことに挑戦し、学習を重ね、自分の向き、不向き、何になりたいかを見つけていくしかないのです。勉強しましょうね
さて、次回は、第10回 「それでも子供は勉強しなければならない!」 その3 最終回になると思います 。あくまで予定ですが (笑)。
*1 このフォーラムは「ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム」として、読売新聞社が1987年から開催しているものです。
http://info.yomiuri.co.jp/yri/n-forum/index.htm
*2 この1999年のフォーラムは「科学者と作家が共有する教育論」という副題がついていました。利根川進先生(1987年生理学・医学賞)と、大江健三郎氏(1994年文学賞)が、それぞれに基調講演を行ったあとに、養老孟司先生を進行役(コーディネーター)に迎えての対談でした。「共有」というタイトルは???でしたね(笑)。