習い事の基本は上手な人やお手本を真似る事でも有るのですが、
自分が見たような感じたような踊りを演ずるには、真似た事や
記憶した様々なステップや運動表現をそのまま自分の踊りとして
身に付けてしまうと、お相手にとって非常に踊り辛い踊りとなる
だけでなく、常に自分自身の本来の自然な運動機能と身体の中で
争いを起こし、自分の思う様な魅力的な音楽表現が出来なくなって
しまいます。
多くの方が一生懸命トレーニングをして社交ダンスを上手に
踊ろうとしているのですが、その努力の方法が自分自身にとって
また一緒に踊るお相手にとって思いとは逆の結果と成ってしまい
多くの時間を掛けているにもかかわらず上達を阻んでいる事が
意外に多いのです。
大切な事は、社交ダンスのステップやテクニックを多く身に付ける
以上に、自分の身体そしてお相手の身体に関心を持つ事です。
私達が日頃何も苦労せずに日常生活を営む事が出来るのは
誰もが持っている人間としての自然な運動機能を使っているから
と言えるのです。
この機能は、社交ダンスのみならずあらゆるスポーツに於いて
使われるもので有り、その運動経路は外見とは全く異なった
全身の繋がりによって成されています。
目に目ないものですからとても難しい様に思えるかもしれませんが
生まれた時から使っている機能なので、誰でも理解出来るのです。
当然初めて社交ダンスを踊る時もこの自分の持っている運動機能
そしてその機能がお相手とコンタクトした時どの様に使われるかを
習う事が一番大切で有り、見た事も無いステップや動かした
ことの無い身体の一部を外見的に動かす事はとても難しいです。
身体の一部を外見的に動かす事はとても難しい為、初心者や
上手く踊れない方々は不自然な運動と成ってしまうのです。
初心者だから上手く踊れ無いとか運動神経が無いから踊れない
とか言った安易な考えでただ膨大な記憶にがんばったとしても
所詮違う運動をしているのですから思う様に踊れないのです。
何年も努力したから踊れる様に成ったと言うのではなく、
長い間身体を使って経験的に自分の身体の動かし方を
身に付けたに過ぎず、本当の自分の身体の機能は最初から
習うべきなのですが、日本のレッスンに於いては、99%
外見的な運動表現と社交ダンスのアイテムの記憶に限られ
自らの持って生まれた運動機能を封印しているのです。
つまり上手く踊れない様な練習を続けているから、多くの方が
初期の段階で諦め、ほんの一部の人達が何とか自分の
身体に鞭打って踊っていると言えるのです。
何故ダンスの練習場に来ると殆どの方が特殊な運動と
不自然な姿を成すのでしょうか。
その様な踊り方や踊り姿が社交ダンスだからと思って
いるかも知れませんが、社交ダンスを初めて見た人は
まずその奇異なスタイルや運動に身を引いてしまいます。
社交ダンスは初めての人であっても直ぐに自分も踊れそうな
錯覚を抱きその楽しさに囚われてしまう事が大切です。
アクロバティックな踊りや外見的に誇張されている踊りを
見せられてもそれは別世界のサーカスの様にしか感じず
社交ダンスを多くの人に広める事には成りません。
どんなに芸術的でダイナミックな踊りであっても、社交ダンスは
私達の持っている基本的な運動機能で動いている事から
始めて見た人も虜に成ってしまうのです。
競技ダンスやショウダンスの様に外見的な美しさを競う踊り
であってもその原点は誰もが踊っている社交ダンスであり
どんなに難しい踊りでも外見の派手さや奇抜さを取り除けば
初心者が踊る踊りと同じである事が大切なのです。
社交ダンスが誰とでも踊れると言うのは、同じフィガーを
お相手によって様々に変化させて踊れるからです。
しかもどんなに外見が変わっても二人の運動機能は
誰もが持っている物なので楽しく踊れるのです。
例えダイナミックな踊りが踊れたとしても、それは自分の
特定の方との人と外見を競う為の踊りであり、そのまま
誰にでも同じように踊ると大きなトラブルと成るのです。
ただステップを優しくして踊るのではなく、お相手の心と
身体をしっかりと感じて最も二人にとって相応しい踊りに
変化させる事が出来る方が本当に社交ダンスが上手な
魅力的な踊り手と言えます。
お相手に応じて音楽に応じて環境に応じて千差万別に
踊り分けられるから誰とでも踊れると言えるのです。
自分の持っているステップやテクニックを押し付けたり
自分の思う様に動かそうとする事は社交ダンスでは無く
単なるパワハラに成ってしまいます。
目の前の方が笑顔で踊っているからと言って、楽しく
踊っているとは限らず、その顔は引きつっている事も
あると言う事を知りましょう。
社交ダンスは誰と踊っても男女が心から楽しく踊れる
と言う事が大切です。
この事は私達の生活に於いて誰とでも心から楽しく
一緒に過ごせると言う事と同じなのです。