社交ダンスが上手になると言う事は、まさに、日頃の
対人的生活と同じであり、男女が、共同作業をする時
如何にお互いが信頼関係を高められるかと言う事です。
男女は、同じ人間と言っても、メンタル面においては、
まるで、水と油の様に違っているものであり、単に
理屈で納得させようとしても、上手くいかないのです。
日常的なやり取りに於いても、いくら正論を述べても
男女其々のメンタル面の納得がいかなければ、
解っていても応じられないことが多いものです。
男女が同じ屋根の下で生活していても、同じ答えを
導き出す時も、それぞれの考える機能は違っていて
なぜ、理解できないのかと、呆れ、悩むことも多いのです。
この人としてと言うより、男女の思考回路の違いを
知らずして、社交ダンスは上手く踊れないのです。
テクニックも音楽表現も、男女其々の特徴を持った
心のフィルターを通して現れるものであり、ただ、
誰か上手な人の真似事を繰り返したところで、しょせん
他人のふんどしで相撲を取っている様なものです。
何故、もっと自分の長年育てて来た個性を大切にしないのか。
何故、自分とは違う異性の個性を理解できないのか。
この事が、社交ダンスのみならず、日常生活に於いても
男女のやり取りを難しくしているのです。
違うからこそ、その違いに応じて的確な運動表現が出来
相手が受け入れられるテクニックが使えるのです。
外見的に見える感動的な部分だけを捉えて、その上辺を
真似たとしても、自分自身の心が納得できないのです。
更には、そんな浮ついたテクニックや運動表現を使って
相手とコンタクトすれば、当然、目の前の人とは違う
偽りの借り物の感情表現ですから、本能的にも、拒否され
受け付けられないのが当然と言えるのです。
沢山の知識や運動表現は、一体何の為に有るのか。
その時流れる音楽を感じ、目の前の人の心と身体を
理解する為の道具なのです。
その道具に、本人の心から生まれた運動表現が伝わらず
記憶したステップやテクニックでお相手に対処すれば、
例えダンスと言わなくても、当然、嫌がられるのは
当たり前の事と言えるのです。
しかしながら、多くの方が、上手く踊れないのは、自分の
テクニックや運動能力の無さ、更には、お相手の技術の
未熟さや間違った運動表現と考えがちです。
その為、常に、男女共に、自分達の心から生まれた
テクニックや運動表現ではなく、誰か他の人の表現を
借りて踊っている事から、いつも違和感のある、お互いに
納得できない踊りに成ってしまうのです。
社交ダンスと言うのは、人間の生活活動の中の、ほんの
小さな部分に過ぎません。
生きて行く間に必要なあらゆる人間として大切な考え行いを
たまたまダンスとして表現したに過ぎません。
その為、どんなステップも運動表現も、その外見だけを追求し
見た目の魅力を見出そうとしても、意味がないのです。
男女其々の人生が生み出した魅力を見せられなくて、
踊るペアも見ている人も納得が出来ず、まして、感動的な
踊りには程遠いと言えるのです。
キャリが無くとも技術が未熟でも、一生懸命、音楽を聴き
相手の気持ちを感じ取る事で、その時のペアとしての
最高の踊りが出来るのです。
社交ダンスは技術以上に人としての心の成長が望まれます。
外見的にインパクトの強い踊りゆえ、より人間的な豊かさが
感じられないと、社交ダンスを踊る意味はないのです。