コンピューターが修理に出されて、1週間程、
アップが出来ず、そのまま年末休業に入って
しまいました。
ようやく使えるようになったものの、初期設定と
成ってしまい、
新たに設定し直す事に時間が多く掛かって
しまいました。
所で、年末恒例のパーティに向けて、体を作って
来たものの、その代償は非常に大きく、コンピューターの
不具合以上に回復が遅れました。
年々、体力が落ち、現役の当時の運動量と技量を
保持するのは、とても難しく、準備の為に数か月を
有します。
長い間踊っていると、音楽が聞こえてくると、自然に
身体が動き、それ相応の踊りが出来るのですが、
数十年前の踊りを再現するとなると
また話が違ってきます。
年相応の踊りであれば、日常的なレッスンも
苦労しないのですが、
自分が思うがままに踊れていた頃を再現するとなると、
頭で解っていても、身体がなかなか応じてくれません。
その為、頭の中のイメージ通り身体を動かすと、
全身が悲鳴を上げ、観客の前では反射的に動けても、
その後の身体は、歩くのもやっとで、
まるでKОされたボクサーの様です。
年末に教室を閉めて帰郷をするも、新年を迎えても
そのダメージは非常に大きく、体の痛みは寝ている時も
続きます。
何故、それ程まで頑張る必要が有るのかと、自らも時々
思うのですが、踊っている時には、まるで、かつて武道館で
競っていた時の様に、夢を見られるのです。
とは言え、若い頃と現在の体力差は大きく、
ほんの短い間には、再現出来たとしても、
そのダメージは計り知れず、終わって見れば、
その無謀さと学習能力の無さに、あきれ返ってしまいます。
一時の快楽の為に、その後に訪れる苦痛の日々を
忘れてしまい、終わって見れば、少なからず後悔が
募ります。
毎年、苦しみは大きくなっていくのに、それでも繰り返すのは
やはり、踊りの持つ魅力であり魔力なのかも知れません。
プロであろうとアマであろうと、かつての喜び快感をもう一度と
思うのは常と思われます。
しかし、歳を重ねるにつれて多くなるハンディキャップは
大きくなるばかりで、想像もしない身体の異変に戸惑います。
かつて、若い頃、予選を踊り終わって控室に帰って来る途中
日本を代表する審査員が話しかけて来たのを思い出します。
自分達審査員は、若者達の審査は出来るけど、同じ踊りは
踊りたくても踊れないのが残念だと言いました。
頭の中では、どの様に踊れば良いのか解っていても、
自ら再現できない悔しさが審査している時は頭を巡る
と言います。
今、私は、その時の審査員より遥かに年を重ねました。
踊れないのではなく、自らを納得させるために踊る事が
如何に大変であるか、心と身体の悲鳴が毎年大きくなります。
パーティの最中は、お客様に対しては、精一杯虚勢を張って
終わると、まるでぼろ布の様に成ってしまいます。
明日から、また、レッスンの日々が始まります。
年末の後遺症は完治とはならず、しばらくは身体を騙しながら
回復を図る日々が続きます。
とは言え、苦しい思いをしても、フロアーに立ちたくなるのは
やはり、社交ダンスの魅力であり、生徒やパートナーとの
心の交流を求めていると言えます。
中々思うがままに踊れないとはいえ、更なる感動を求めて
今年も頑張ってステップを踏んで行きたいと思っています。