アマチュアの方が社交ダンスを習う時、サークルでも
クラブでも、教授所でも、初心者の段階で、直接、
種目別のルーティンを習ったり、様々なバリエーションを
覚えさせられたりする事が多いです。
特に、グループレッスンを主体にしている所では、
全く初めてであっても、先輩方の踊りに参加して
見よう見まねに踊る姿を真似して練習する事も多く、
時には、初日から、直接、ワルツ、タンゴと言った、
音楽的表現を伴うものまでも、まるで、盆踊りを習う様に
踊っている方々を見受けます。
サークルの習っている方に伺うと、何十年も同じような
踊り方で教えられていると言い、中には、一年もしない内に
競技会で踊るようなステップやグループを踊っています。
確かに、グループで、和気会い合いと踊る事は楽しいですが、
人間の身体の特性や男女の踊りの違い、音楽の表現方法等
沢山の基本的な運動を知らなければなりません。
どんなステップもグループも、自分の身体の使い方、男女の
関わり合いを知らずして、二人が楽しく踊る事は出来ません。
しかし、このレッスンは、極めてメンタルな理解が必要であり、
お互いの事を知る為にも、できるだけ簡単なステップを使い、
全ての踊りに通じる運動表現を覚えなければなりません。
その為、ラテンアメリカンダンスであろうが、スタンダードダンス
であろうと、どちらも、ノーフットライズの基本の立ち方と
それから発展する、様々な運動表現の方法を習わなければ、
運動の結果出来たライズ&フォールや様々な運動形態を
真似しても全く踊れ無いのです。
普段の生活と全く違った事をするのが社交ダンスと思っていると
社交ダンスの愛好家仲間しか理解できない、特殊な踊りになって
いつまでも苦労が続きます。
かつて、サークルの先生を何人もレッスンした事が有りますが
残念ながら、どなたも、外見的な練習で社交ダンスの技術を
身に付けて来た方ばかりでした。
その為、習う生徒も、どなたも特殊な踊りと成って、順番を決め
自分の足型と上体の形を常に考えていなければいけない、
ペアとしてお互いに苦しい踊りと成っていました。
しかしながら、どの先生も、プロの先生に長い間習ったと言い、
一体プロは、何を教えていたのかため息が出たものです。
それらのサークルの関係で、我が教室にも何人も生徒が
レッスンを受けに来たのですが、社交ダンスの技術やステップを
教える以前の問題を抱えている方が殆どで、元の自然な身体に
戻す事に非常に苦労しました。
サークルの先生も生徒も、社交ダンスに対し、非常に熱心であり
アマチュアの愛好家を増やす意味でも嬉しい事なのですが、
実際に伝えられている技術は、残念ながら、踊る為と言うより
お互いに苦痛を増すだけで、苦痛に耐えて笑顔を作っている
としか思えない物でした。
当然、自分が聞いている音楽もほとんど感じられず、自らの
習った記憶が踊る時の術でした。
しかし、この傾向は、今でも日本全体の社交ダンスの主流と
思われ、例え、素晴らし技術を持ったプロであっても、基本的な、
初心者が学ばなければならない大切な項目を教えられず、
先生としか踊れ無い、常に、先生に引きずって貰わなければ
踊れ無い生徒しか育てられないのが残念です。
社交ダンスは、どんなに技術差があっても、踊り出したら、
お互いに相手の立場を理解した運動表現が出来なければ
2人が楽しくは踊れ無いのです。
自分が相手よりも踊れるからと、これ見よがしに引っ張ったり
踊り方を強要するようでは、パートナーとしての資格は無く、
人間的にも寂しい方と言えます。
しっかりとしたレッスンを行える教室やサークルならば、
基本的な歩き方だけでも、内容豊かなレッスンが出来ます。
ただ歩くだけでは、何の意味もなく、歩くと言う行為が、
踊りにどの様に繋がって行くのか、身体の事、相手との事
音楽的な歩き方、上半身と下半身の関わり合い等、
上げればきりがない程の重要な項目が有ります。
その為、本当に踊れる踊り手やプロは、毎日の練習に
基本的なウォークを忘れません。
ベーシックを習うと言う事は、踊りの要素をすべて習うこと
と言っても良いのです。
その大切な部分を全く無視して、出来上がりのルーティンや
運動表現をおぼえることは、全く無意味と言うより無謀です。
社交ダンスは、普段、思うがままに歩き、自然に呼吸して
周囲の物に反応する事と何だ変わりません。
お互いに特殊な運動表現や足形を覚えると、何十年も
積み重ねて来た人としての自然性を失っていまい、
折角素晴らしい表現を行おうとしているのに、相手にとっては
苦痛であり、見ている人からは、思わず身を引いてしまう、
残念な踊り手と成ってしまうのです。