社交ダンスと競技ダンス | 社交ダンスはヒップホップよりやさしい

社交ダンスはヒップホップよりやさしい

学校教育におけるダンスと言えば,ヒップホップが主流となっていますが、社交ダンスは二人で助け合って踊ることにより誰でも覚え易く、技術とマナーが自然と身に付きます。
子供からご年配まで、踊ることにより相互理解が得られる、素晴らしい芸術的スポーツです。

社交ダンスを知らない人からすると、社交ダンスは
テレビのバラエティ番組で踊られている様な、

競技ダンスと思いがちです。

確かに、社交ダンスの競技会なのですが、
画面に映る華やかな衣装を着て踊る事が

社交ダンスであると思ってしまうと、社交ダンスを
習ったり、教えたりすると、様々なトラブルが生じ

それこそ、顔で笑って、心で泣いている踊りと
なってしまうのです。

 

テレビなどの番組で、芸能人が社交ダンスを踊るとなると

番組の都合で、決められた時間に、映像的に

視聴者を引き付ける踊りに仕上げなければならず、
ディレクターは、タレントに、完成形を習う様に勧めます。


限られた時間で、見栄えがする様に、全く基礎を知らない

社交ダンスが初めてであるタレントに、完成形のルーティンを
覚えさせます。
担当するプロも、本当は、全く本末転倒のレッスンとは言え

やはり、仕事としてのメリットを考え、限られた時間で、

振付を外見だけでも仕上げようとするのです。

 

その為、様々な派手なショットを記憶させ、外見を作り

衣装を着せれば、視聴者の多くは、その姿を社交ダンスと
思ってしまい、このペアは、社交ダンスの優れたの能力が

あると思ってしまうのです。

 

しかし、この教え方は、決して特殊な事ではなく、例えば

大学に入学して、社交ダンスのクラブに入ったとすると、

生まれてから社交ダンスを全く踊った事のない新入生が
突然、先輩から、一連のルーティンを覚えさせられます。

そして、ほんの短い練習の後、新人戦に出場すると

言う事が、珍しくはないのです。


習った新入生は、踊り方を習いながら、新たなるステップや

難易度の高いフィガーを覚える事が社交ダンスと思い、
自分達が上級生になると、下級生に同じように伝えて行く

というのが、多くの大学に於ける社交ダンスクラブや

サークルに見られるのです。


その為、社交ダンスを踊るにあたっての、音楽や対人的な

要素を成長させないで、ただ、記憶通り、外見的に綺麗に

間違わないでルーティンを踊る事が社交ダンスと思って

競技成績を上げて行くのです。


ところが、外見的な姿を基準としてその比較的な部分で

競って社交ダンスを踊っていると、特定の相手には

通用するものの、様々な方と踊る事が出来ず、

例え、競技会でトップの成績を得ても、自分のパートナー

以外とは全く踊れず、例え踊れても、自分の踊りを

強要する、極めて踊り難い、社交ダンスとは言えない

踊りと成ってしまうのです。


かつて、アマチュアのトップとなった選手が、プロになり
自分の教室を持って生徒を指導する道を選んだのですが、
一般の生徒と基本的な踊りが全くできず、相手の体形や

運動の力が自分と全く違っていても、自分のパートナーと

踊っていた踊り方しか出来ず、有名な先生に習おうと

全国から集まって来た生徒たちをガッカリとさせました。


アマチュアで日本一に成る程の技量で踊れば、誰でも

簡単に躍らせられ、しかも生徒からは喜ばれると

思っていたのに、実際は、生徒を教える事も出来ず
数年後には、プロを辞めてしまいました。

 

この事は、決して特殊な事ではなく、日本中で普通に

トラブルの原因として起こる事であり、特に教える立場

となった方が、競技会の踊り方しか知らず、不特定多数の

一般の方と楽しく踊れ無い現状が有るのです。

競技会に出る程の技術を身に付けているから、誰とでも

楽しく踊れると思うのは大きな錯覚と言え、自分の

踊り慣れたパートナーとは楽しく踊れても、他の人とは

踊る度に、お相手の苦痛となる場合が多いのです。


勿論、競技ダンスは社交ダンスでは無いと言っている
のでは在りません。
競技ダンスを踊るにあたっても、しっかりとした対人的な

基本が深く理解されていないと、単に、外見だけの

裸の王様の様な踊りになってしまうのです。


アマチュアの方の中には、社交ダンスは、決められた
踊る順番が有って、それを、ステップを間違わないで

踊れれば上手になると思っている方が数多くいます。

この考えがもたらす最大の不幸は、誰と踊っても

決して楽しい自由な踊りにはならない事です。

例え、何年もペアで踊っている方にしても、

踊る順番を決めないと踊れ無い方は、新たにルーティンを

覚える度に覚え直すという、いつまで経っても

初心者の領域を超える事は出来ないのです。


社交ダンスには、様々なテクニックや運動表現があり

それら全てを覚える事は至難の業と思えますが、

これら習う事の全ては、目の前の人と如何に楽しく

トラブルなく踊る為の道具であることを忘れては

なりません。
当然、道具は、磨かれなければならないのですが、

その道具を、誰に対しても同じように使ったり、

自分の使いやすいように使っていては、例え先生でも

社交ダンスを教えられるとは言えないのです。

社交ダンスを踊れると言う事は、自分のパートナーを

如何に気持ち良く踊らせる事が出来るかと言う様に、
様々なパートナーと踊っても、同じような喜びをを

感じさせることができるか、と言う事なのです。

 

この事は、社交ダンスを教える立場の方は特に

心していなければなりません。

日本で踊られる社交ダンスの問題点の一つに、

リーダーであり、教師である方々の、一方的な

踊り方に依るレッスンが有ります。

競技会に出る程の技術であれば、外見的にも

美しい姿を表現できるかもしれませんが、

その踊りを、コンタクトしている相手に対して、

自分のパートナーと踊る様に強要してはなりません。

 

十人の生徒がいれば、十通りの踊りが、相手の

条件に合わせて踊れるのが、教える側の能力です。

まるで、粘土細工をする様に、生徒の体形を作ったり

自分のタイミングやスピードに無理やり合わせて

生徒を振り回しても、生徒は成長するどころか、

上手く踊れ無い事で、自分の踊りすら崩れてしまいます。

 

競技ダンスは、社交ダンスの技術の延長上にある事が

とても大切なのです。

ただ、意味もなく、自分のルーティンの完成度を上げ

外見的な美しさばかりを考えていると、人間として

成長は望めず、異性の心を知る事も出来無いのです。

素晴らしいテクニックや運動表現が出来ると言う事は、

素晴らしい人間性に裏打ちされていなければ、

如何に外見が美しくとも、残念な人になってしまうのです。


願わくは、日本の踊りが、私達日本人が長きに渡って

育てて来た、思いやりや労りの心を使って踊れる様に

なってくれるととても嬉しいです。