社交ダンスの真の目的は? | 社交ダンスはヒップホップよりやさしい

社交ダンスはヒップホップよりやさしい

学校教育におけるダンスと言えば,ヒップホップが主流となっていますが、社交ダンスは二人で助け合って踊ることにより誰でも覚え易く、技術とマナーが自然と身に付きます。
子供からご年配まで、踊ることにより相互理解が得られる、素晴らしい芸術的スポーツです。

スポーツと同じく社交ダンスの技術も、日々進化し

毎年新たなるアイディアと演出により、更なる

エンターテインメント性を高めています。
それに伴い、社交ダンスの愛好家の方々の踊りも

時代と共に華やかと美しさを増しています。

ビデオで昔の競技会を見て、現代の踊り手と比べると
様々なテクニックの進化もさることながら、見せる為の

華やかな演出が随所に見られ、一つのショウを見ている
かのような美しさです。

 

振付け演出の効果は見る人を圧倒し、社交ダンスの踊り
と言うよりは、新たに作られた斬新的な踊りを見ている様で

社交ダンスの競技会である事すら忘れてしまいそうです。

とは言うものの、社交ダンスとしてみると、残念ながら

数十年前の踊り手と比べても、進歩しているとは言えず、
単に、テクニックとしては増しているのですが、ペアとして

二人が創り出している踊りとして考えると、外見が華やかで

あるが故に、二人で踊る必要性があまり感じられず、

男女別々の踊りとして観た方が良いのではと、
思えてしまいます。

二人の個性が技術として観客に強烈に示されるのは

演出としては良いのでしょうが、男女の持ち味も、

2人がお互いに、その時の音楽と相手に対して感じた

生の感情が伝わらず、一生懸命練習して覚えたルーティンを

2人が別々に、ただ必至に踊っている様で、見ている側は

その踊りに圧倒される事は有っても、心の感動には至らず
踊りを見た後も、一体どんな素敵なペアが踊っていたか

心には残らないのです。

 

今や、視覚や聴覚を強く刺激して観客や視聴者に訴える
演出方法があらゆるメディアに於いて主体と成っていますが
少しでも強く印象的に、視聴者を引き付ける演出が多く、

見ている人達の気持ちを置き去りにしている場合が多いです。
この方法は、社交ダンス全盛期の、バブルの頃の踊りであり

これ見よがしの踊りは、印象は強くとも、人々の心深く

感動を残すものでは無く、見る側は、更なる刺激を求めるだけで

その前に見た演者の印象は消えて行くのです。


社交ダンスを男女が踊ると言う事は、男と女が其々の思いを

音楽に託しながら、二人で創り出すオリジナルな物語です。
男女が、お互い相手に求める思いを、お互いが反映する事で

踊りを通じて、見ている人たちに、男と女の理想を思わせます。
様々な演出の中に、男女の心内が感じられる事に依り

見ている人たちは、自分の気持ちと照らし合わせながら、
より感動を高めて行くのです。

つまり、様々なステップも運動表現も、演出方法も全てが
二人の人間的魅力を導き出すものでなければ、社交ダンスの
意味が無いのです。単なる煌びやかなショウダンスではなく

踊るペア、其々の個性と心が感じられないとつまらないのです。

圧倒的なパワーや、目を見張る演出は、商業的効果としては
良いのかもしれませんが、踊る誰もが、その外見を求めていては

いつも不満足の、心が満たされない踊りに苦しむのです。


社交ダンスは、初めて習う時から、あらゆるステップも技術も

自分自身の心を満たし成長させるものでなければなりません。

2人で踊ると言う事は、お互いに助け合って、お互いの
人間性を成長させることが最大の目的と言えるのです。

単なる外見を望むなら、競技会の一位は、その時だけの

順位の一位であり、一位以下は、全て同じ、何の価値も無いと

言えるのです。

人は、其々、様々な人生を辿り、個々の唯一無二の個性を
育てながら生きて行くものです。
その違いに順位をつける事は出来ないのです。

技術的な評価や音楽的評価など、何かの基準を持って、

順位をつける事は出来るのですが、その順位を持って
そのペアの、人間的な価値を決めるものでは無いのです。


つまり、何を基準にして順位を決めるかは可能であっても

その外見的な優劣で人の優劣は付けられないのです。

ならば、何を目的としたら良いのか、それこそ、二人が二人で

お互いを感じながら理解しながら作り上げる、人としての
価値を高める事を目的とする事が大切と言えるのです。


今や、社交ダンスのレッスンも、競技会も、余りにも外見的な

目で見て比較できる部分で優劣を付け、踊り手の中身は、

置き去りにされているのが現状です。

この事は、一般の、アマチュアの方のレッスンや練習に於いても
同じ傾向があり、見た目に印象的な踊りや、上手と言われる

踊り手の真似でしかない踊りを多くの方が求めています。

その為に、二人の気持ちや、ペアとしての体形や運動機能と

全く違った他人の運動表現を真似る事で、いつまで経っても
自分達の心も身体も不自由と成り、どんなに練習しても
納得が出来ず、例え、競技会で良い成績を得ても、外見的に

自分達より遥かに上手なペアが居るため、満足する事無く

欲求不満ばかりが募るのです。


社交ダンスは、練習する時も、不特定多数の方と踊る時も

異性と踊ると言う大きな目的があり、その相手の気持ちを
如何に量り、お互いに人として進歩できるかが大切です。
言葉は発せずとも、いつも、心の中でお互いの気持ちを

確かめ合って踊っているのです。


どうやったら、目の前の人が、楽しく気持ち良く踊れるかの

努力が出来る方が、社交ダンスをする意味が有るのです。
自分の行っている運動表現が、正しいと思っていても、

その時の相手にとって、苦痛である事は珍しくないのです。


テクニックは、相手に対してそんな不快な気持ちにさせない、
気持ち良くさせる為に有るのです。

大人であれば、そんな相手の気遣いを感じて、自らも
相手を楽しませようと頑張るのです。
この、他人に対する気持ちを育てるのが社交ダンスを踊る
大切な目的なのです。


多くの方が、道具ばかり立派なのですが、お互いにいがみ合って
踊っているように見えてしまいす。

外見的には、にこやかに見えるかもしれませんが、心からお互いが

信頼し合って、助け合っているペアの踊りとは、雲泥の差です。

しかしながら、そこまで行かないで、道具の見せ合いで優劣を

着けているのが多くの競技会の姿と言えます。


社交ダンスと言わず、一般の社会に於いても、家庭生活に於いても

お互いの理解と労り、そして、お互いの心の成長が大切です。
衣装や外見、踊りを褒められても、中身の価値を認められなければ

人として、社交ダンスと言わなくても悲しいものです。