男女がコンタクトして一緒に踊る社交ダンスは、
様々なテクニックの元、音楽を二人のボディを通し
表現するものですが、太古の昔から、男女の役割が
踊りを通して反映されている様に、二人の踊りの内面には
男女の深い愛情と思いやりが流れているものです。
競技会等、踊りの優劣をつけて、スポーツ的な面白さを
加味するようになったものの、その中には、男と女の
御互いが相手を想い、求める熱い気持ちが見られないと
単なる器械体操の様になって、男女の作り出す美しい
芸術性が薄れてしまいます。
近年、社交ダンスは、技術の発達と共に、その美しさを競い
華やかさを高める為に、多くの踊り手を集めるパーティや
競技会が中心に成りつつあります。
美しいものが多く集まれば、そこには、多くの人々が集まり
その商業価値が高まり、より豪華なイベントが催されます。
オリンピックや世界選手権と言った催し物は、人々の
興味の対象を商業化する事に因って、より、経済効果や
マンパワーを生むことになり、社交ダンスの方向性も
それらの華やかな舞台が中心と成りつつあります。
その為、多くの踊り手たちは、その華やかな姿に囚われ
自分が感動した選手や踊りに似せようと努力するのです。
ところが、この華やかさは、そうやすやすと手に入る物でなく、
それまでに至るまでには、想像し得ない程の努力と経験が
必要なのです。
社交ダンスは、どんなに激しく運動しても、表現としては
音楽的な芸術を見せる為、外見と実際が全く異なっていて
踊り手のスポーツ的な能力を考えないと、いくら真似しても
似ても似つかないのです。
その為、多くの競技選手は、アスリート並みにトレーニングを
重ねるのですが、ここで、更に間違った思い込みをしがちです。
多くの競技選手に見られる傾向です。
踊りは、自分が感じた様に踊れば、更に、より力強く踊れば
同じ様な表現が出来るに違いない、と言う錯覚です。
男女共に、身体中を鍛え、全身の力を振り絞って、ルーティンを
誰よりも目立つように踊ろうとします。
芸術的スポーツだから間違いないと思い込み、自分たちの力を
周囲に見せつけようとします。
しかし、この時点で、すでに、社交ダンスでは無くなっているのです。
二人が、力で様々な形を決め、一曲を通して見たような理想の踊りを
作り上げようとします。
二人の違う思いがぶつかり合い、それでもお互いが崩れない様に
フォームを固定し、様々な形を周囲に見せて行く事に、わざわざ
男女が組んで踊る必要が無いのです。
見ている人たちの感情は、衣装を着た派手な新種の格闘技を
見ている様に思うに過ぎません。
どんなに素晴らしいルーティンを組んでも、満面の笑みを湛えても
そこには、男女の素敵な関係も音楽的繊細さ滑らかさも感じません。
間違ってはいけない事、それは、どんなに素晴らしい
踊り手であっても、見ている人たちと心は変わらない
という事です。
様々な事に感動する力は同じであり、たまたま社交ダンスの
技術と表現を知っていると言うのが踊り手であるのです。
見ている人は、一体何を求めているのか。
二人の男女が演ずることによって、二人の踊りから
何を期待しているのか。
どの様な踊りをしたら見ている人々に感動を与えられるのか。
私達の喜びの根源を理解していないと、単なる踊りの技術と
並外れた運動神経を見せつけられているだけと
なってしまうのです。
社交ダンスのみならず、あらゆるスポーツに多くの人が
なぜ集まるのか。
観客サイドから考えると、本当は、自分がその舞台に立って、
自分が感じる最高の感動的な表現をしたいのです。
しかし、様々な理由で、その舞台に立てる人は、
ほんの一握りなのです。
社交ダンスを踊る人は、自らの踊りを楽しむ事も大切ですが、
見ている人に、その楽しみを感じさせる責任が有るのです。
そして、一番、その喜びを感じさせなければいけないのが、
眼の前の貴方のパートナーです。
踊るという事は、相手がその場にいる事の喜びを感じさせ
男であること女であることの素晴らしさを感じさせなければ
なりません。
そして、見ている人たちに、人間の更には、男女の存在の
素晴らしさを、感動を持って知らせなければならないのです。
社交ダンスのあらゆるテクニック、表現は全て、心を豊かにして
幸せにさせる為の道具なのです。
道具は磨かなければいけません。しかし、道具しか見えない踊りは
残念ながら社交ダンスとは言い難いのです。
人間として、男として女として魅力を育てる為に
社交ダンスは有るのです。