かつて社交ダンスは、国民の間でごく普通に
居酒屋に皆で飲みに行く様に気楽に考えられ、
異性との交流に利用されていました。
今でいう、合コンナンパが踊ることによって
簡単に成り立っていたものです。
ジルバが踊れれればそこそこの踊り手であり
女性を自由に回転させている男は、周囲から
一目を行かれていたものです。
それから数十年の月日が経ち、今では、
多くのマスコミに取り上げられ、中高年の
代表的なスポーツとして定着してきました。
しかしながら、昔と違うのは、楽しんでいるのが
ほとんど中高年だという事です。
コンペを見に行くと、観客の多くの頭が年齢を
感じさせ、上手く世代交代がなされていないのが
踊り手を見なくても解ります。
一番の問題は、世の中の景気が沈滞し、
若者たちが、比較的多くの予算が掛かる
社交ダンスから離れてしまったことにあります。
確かに、サークルやグループ活動に熱を入れる
若者も多いですが、いま流行りのヒップホップに比べ
社交ダンスは、多くの子供たちが興味を示しません。
文科省もヒップホップを学校教育におけるダンスと
位置づけしたため、ますます社交ダンスは
一部の、かつて若いころ楽しんだ高齢者の趣味とし
かろうじて楽しまれているに過ぎないのです。
競技ダンスを基準として日本で踊れれてきた
社交ダンスは、技術を習得する事に注目され
社交ダンスの社会的意味を教えてきませんでした。
ヨーロッパにおいては、社交ダンスは、
各世代を繋ぐパイプの役目として、また
マナーの一環として学校教育とは別に発展しました。
技術が高いことも大切ですが、ダンスを通じて
様々な世代の人と楽しく交流ができるかが
大人の社会人としての基準となりました。
社交ダンスが踊れるという事は、
社会人として大人として振る舞える人として
自他ともに認められたのです。
今の日本の社交ダンスの基準が
余りにも技術に偏ってしまっていることが
一般大衆に受け入れられない原因でもあります。
学校教育において、英語が必修であるとして
今や日本中で英会話が盛んです。
英語が自由に話せることをステイタスとする様
国も企業も力を入れています。
ここで、英語教育が社交ダンスと同じ道を辿るのでは
と私は懸念します。
つまり、言葉を巧みに使いこなす人間を育てることが
目的になってはいないか。
言葉は、あくまで手段であることが前提条件なのです。
英語がペラペラに喋れても、相手の気持ちが読めない
単なる自己満足の英会話達人を生むのでは
ないでしょうか。
多くの競技選手やアマチュアの踊り手を見ていると
技術は格段に上手くなっているのに、一度見ると
二度と見たくない踊り手がやたら目につきます。
かつて、私達プロが海外のコーチャーから
人形だ亭主関白だと言われたのと、何だ変わりない
機械の様な踊り手が増えているのです。
英語もダンスも技術は手段であり、どちらも
お互いの心を伝えるために学びます。
見ていて、心和む、いつまでも見ていたい踊りが
普通の方々の間で踊られる日を心から望みます。