ゲネで。


 おーいっ自分!!


 ゲネってこんなに疲れるもの?

 場当たりもしたけど、一回通しで燃え尽きた。

 そんな明日が初日。

 稽古期間一ヶ月ということを鑑みると、ものすごく長い一ヶ月だった。

 みんなと出会って一ヶ月しか経ってないんだ!?

 すーごいね。


 ここのところちょいちょい地震を東京でも感知している。

 安全面に気をつけて、楽日までぶっ飛ばします。

 ご予約まだまだ承っております。

 みんなで一緒に〔joy〕しませんか?

 サカナです。ちょっとお久しぶりです。

 稽古していました。一回発作が出て倒れたりもしました。意外とまだダメだった自分にがっかりもしました。

 PC子が三日に一回くらいしか動きません!!!(←これ大ピンチっっっ)


 私事、ココで喋るってことに責任って言うと畏まりすぎているかもしれないが、私はココは公の場だと考えているし、不特定多数に発信する――自分の頭の中を人に伝えるって、実はすごいたくさん誤解が生まれてたりして――どんなに小さかろうと人に影響を及ぼす行為だと思っている。

 ここ最近まで勢い任せで記事を書いてきた。小さくまとまってたまるか、まだ私は若いんだ。と粋がりながら。

 そういうことを私はできるタイプの人間で、むしろ勢いがつきすぎて周りを置いて突っ走っていることが多々あるなと、四半世紀生きてようやく感じたりした。

 けっして大人しくなるつもりはないが。ええ、もう。

 伝えるってこと、それから言葉をちゃんと大事にしていきたいものだ。

 そんな決意をした、四ヶ月目の七月十一日。

 四ヶ月ってこんなに長いのかと、でも120日とか経っていて、もっと色々あって。

 今も待っている人のもとへ帰れない人がいて。

 しみじみ、大変なことが起こったのだと感じる。


 そして私は芝居をします。


 私の台詞で一個、ギスっとしてしまうかもしれない単語があって、実はこっそり心配と、それをおくびにも出さない覚悟を持って板の上にいなければと怖がってたりしながら、ドリライブTシャツが絞れそうなくらいの汗をかきかき稽古をしている。

 [joy]ってタイトル通り、観に来てくれる人もみんなで楽しみたいと思っている。

 芝居って、劇場にいるみんなで創るんだよな。

 演劇って、人間の底力が見えるし、観客も体感できるすごい空間で。

「連休終わって子どもらはいいよなー夏休み、でもオレら仕事だぜ、あーがんばろう」の「あー」とかになりたい。

 笑うってパワーを得ていただいて、明日の糧にしていただけたらとても嬉しい。

 そんな舞台のお知らせです。


〔joy〕

演劇ユニット・333

http://ameblo.jp/333-sun-333/

【出演】

田中あっこ

池上恵

(以上、333)


醍醐絵理加

真武太

竹中孝明(劇団彗星 inc.)

五輪耕平

政井卓実

サカナノアヤ


5本のオムニバス

フェスっぽくない作品群


ぜってー負けねー(オレは勝つLUIGIトゲゾー[あっぶねー])と誓う7/3深夜、タイムテーブル決まりました


↓よろしくお願いしますにこにこ

鬼FES.2011

【公演日程】

2011.7.16(土)~18(祝)

OPEN 14:00/START 15:30


【鬼FES.2011】出演者タイムテーブル

【2F STAGE AREA】 OPEN15:00/START15:30

15:30-15:55(25min)激団リジョロ
16:10-16:35(25min)はんなりふるぼっこ
16:50-17:15(25min)箱六個
17:30-17:55(25min)パセリス

18:10-18:40 (30min)333(こちらに客演します)

18:55-19:25(30min)□字ック

【1F CAFE STAGE】 OPEN14:30/CLOSE21:00

15:55-16:10、16:35-17:50村上佳久(一人芝居)

17:15-17:30、17:55-18:10、18:40-18:55後藤慧(落語)


【チケット】

≪スタンディング≫

333のみの観劇 2000円 with 1drink(6団体の中でサカナが出ているものだけ観たい方)

いろいろ観劇一日券 3000円 with 1drink(全ての団体が見られます) 

↑333おススメ↑

≪お席リザーブ≫

いろいろ観劇一日券 3500円 with 1drink



【会場】

千歳船橋APOCシアター


$333

東京都世田谷区桜丘5-47-4

03-6321-7690


小田急線「千歳船橋駅」徒歩3分

改札口を出たら、そのままの方向へ高架線沿いに進みます。
2,3分歩くとほぼ高架下の横断歩道・信号があります。(右手に「LAWSON100」)
その横断歩道を渡ったところの駐輪場越しに見える黒い建物がAPOCシアターです。
横断歩道を渡って、高架線沿いの路地を10メートルくらい入ったところ、駐輪場の向かいが入り口です。
壁面に大きく草の絵が描かれています。

【ご予約】

http://ticket.corich.jp/apply/27598/013/

※恐れ入りますが、上記フォームの最後尾に「備考欄」がございます

 そちらに「333、サカナノアヤ扱い」とお書き添えいただけますようお願いいたします


よろしくお願いします

 私は、この世界のどこかに

「苦しくない」居場所があって、

 それ以外は“違う”と思っていた。拒否して捨ててきた


 楽に生きる、なんてタイトルの本が昨今種々出版されているが

 そもそも生きるとは何だと考えて足を止めて迷う性格の私が、

楽に生きられることは一生ないだろうとやっと諦めがついた

 決して悪い意味ではなく

 もちろん生きている喜びを感じることは多々あるが、100パーセント苦しくないことはまずないだろうと思う

 それを探すことが、何より一番の苦しみだと思う

 今ココを否定することは、自分そのものを否定することだろう

 ドコかにいる本当の自分を見つけた人を私は知らない

 良くも悪くも自分は自分と言う器分だけこの世に存在している


 東日本大震災、というのは、色々思うことは多かれ、私の人生においてとても大きな出来事だ

 そして改めて自分が生きていることは何なのだろうかと、

 私が私の力でできることは何だろうと考えて、

 結構目を逸らし続けていたけれど、何を選んでも〔正しい〕道はない

 ホントに少ししかお金は出せず、じゃあたくさん働いてその分多く出せば、気は済むかもしれない(それが一番嫌なんだけど)

 でも一方で、現地でボランティアしている人を報道で見て知って、その労働はお金で賄えるものではないから、実際に私自身が行ったほうが良いのではないか

 そうしたら働く時間は削られて、

 私は精神的負担のどうしようもない苦しさはわかるから、カウンセリングの勉強をしてみようと思って

 ちょっと勉強して見えたことは、カウンセラーって何も出来ないという事実

 カウンセリング技術は自分のもやもやを整理したり、人間関係を上手くいくようにするものだから、個人が勉強するのを私は強く推奨するが

 仕事じゃねえ

 では福祉関係かと思い、精神保健福祉士なるものについて調べてみて、四大卒相当の時間が掛かる、それはいい、通信の大学はそこまで高くないし、コレかな、と思った

 もちろん、演劇のことはその間ももやもやの中にあり続けて


 内田樹氏の本は、哲学にカテゴライズされる物があって、

 私は〔生きる〕とか〔命の優先順位〕とか立ち止まざるを得ない性分だから、

 そういう本とか、必要としていてるけれど、

 そうでない人にとって、哲学書って何の意味もないんだなーと、ぼやっとおやっと思った

 哲学書は〔どうしようもない〕もやもやをやり過ごす方法を哲学(最初からそれを選ぶだけではなく、私のように回りまわってここまで来たような人も)に求めている人に、「こんなんどうよ?」って先人が示してくれた〔マシな生き方〕を教えてくれるものであって、この世界で絶対的に必要不可欠なモノでもないのだろう


 演劇、は、私にすごいパワーをくれて、それを糧にまた明日もがんばろうと思えるのは嘘じゃない

 演劇って人間が原始的に持っているパワーを使うものだと思っていて、それはホントにすごい熱量を持っていて、

 私はもっとたくさんの人に演劇ってすげーんだって知って欲しい、のだけれど、

 それもやっぱり変な言い方、独りよがりなのかなとも思う

 演劇を必要とする人には演劇は必要だけれど、そうでない人にはそうでない、のかも

 芸術を一概に生活レベルの括りで意味づけするのは危険だとも思うのだけれど


 テレビで芸能人が「今はまだ義援金とかの支援で、時期が来たら何かしたい」というようなことを言うけれど、

〔その時期〕って、何時だと誰が決めるのだろう

 むしろ芸術って古来宗教儀式と離せないものだと私は思っているので、鎮魂だとか祈りだとか、形にしたもので、自分自身の声を自分自身の形で今届けなきゃ〔いつ〕なんていつまでも来ないのではないだろうか

 そしてたとえ〔その時期〕が来ても、百人が百人それを受けとめることはない

 誰かを傷つけるかもしれない

 そういう怖さが、芸術に必ずある。それからは逃げられない

 そして多分に、芸術家は傷をより多く受ける

 そういう痛みを引き受けない人は、私は舞台に立って欲しくない


 義援金を集めるという第一目的の上、ある劇団がリーディングを行うということでマブダチに誘われて観に行った

 何か、その舞台以上に熱くなってカフェで演劇論を語っていた私たち

 ここしばらく(二年くらい)どーしようもない、どうしようもない中で、元々石橋を叩いて渡る性格が、

 石橋を叩いて叩いて叩き壊して、ほら渡れないじゃん。どうしようもないじゃん、と自分自身で勝手に八方塞がりに追い込んでしまっていたのだけれど、

 帰り道、一人になって渋谷の駅、あっしまった改札と真逆だっ、と思いながら歩いている時、信じられないくらい、体の芯から熱量が生まれてることに気づいて

 ホンッッットに久しぶりに覚醒した

 それを感じた瞬間に、もう理屈とかどうでもいい。芝居をしようと思った

 今まで私にとって演劇は、必ずどこかに逃げるための口実、みたいな部分があって、それを自分でも感じていて

 好きだとか嫌いだとか、善いとか悪いとか、どうでもよくなった

 あきらめて、痛みとか苦味とか引き受けていこうと

 楽しくはなーい

 でも、呼吸するのって、別に楽しくないでしょ?

Who the Bitch 『Toys』が似合う、

 私的にパンクな(よく知らないけど、ビッチテイストの)

 舞台に立つ、来月


 詳細は後日。今日は疲れた。疲れたけど書きたいことだけ書く


 そんな今日が初稽古

 とりあえずスゲー疲れて、

 ものっそい不安になった。ええ、初日から。めっちゃビビってます

 きっと真っ先に凹んで迷って苦しみだす気がする

 迷う、だけはよろしくないかな。自分の中に入っていくことだから


 初日から、ちと自分の小道に迷い込んでしまい、

 そんな自分に気づいてしまった時の、あのパニック、を未だに処理できない

 それがますます自分を急き立てて、焦って焦って、自分の問題に落としてしまって

 シャットダウンして、ああ、私ここにいないと思って

 という魔のループを、テキストとは違うエクササイズで感じてしまい、

 ヤバイ、私成長してないんだけどっ

 と、帰る道々、ヤバイなと感じた。初日なのに


 多分、演劇の技術ってそういうところを、体の動かし方だったり、内臓のよじり方だったり

 カヴァーって言うと少し言葉が違うが、

 その使い方を知っていれば、再現性――前と同じようになぞるのではなくて、を得られるのだろう

 だからこそ何公演も同じものを舞台で見せれるのだなと、

 前々回の公演で、もうホントに色々お世話になって、

 やってる時はマジもう苦しくてホントにしんどかった『13号地』という劇団の演出、加藤さんが言ってた

 加藤さんはそれを、神経を使え、という指示にした


 この迷い小道を抜け出すのは、

 とりあえず〔あの地獄のような一ヶ月連続8時間稽古とかしたあの場で苦しんだこと〕だけは私のモノなので

 徐々に徐々に、あの時求められていたこと、何が何だかわからなくて、自分が今やってることは違う方向へ言ってないのか全くわからないまま、とにかく全力ってこういうことって稽古を、した

 その神経を使うとは、五感フル活用で何かき即リアクション、とか、とにかく全身に張り巡らされている神経で相手のアクションを拾って拾って、相手に台詞を渡すってことに、その時の体中のエネルギー、それを「こういう形で渡します」っていう型を作って、ぶれるな、という、しんどーい稽古

 自分が困ってしまった状態になっている時に、一番出来ないのが相手役者の投げたものを受けとれないこと

 そこで私はどうしたらよいのか、と自分だけの悩みにしてしまわないで

 めっちゃ神経張り巡らせ、相手に集中をとにかくすれば、持ち直すこともできるのではないかと

一先ず思った


 その舞台を振り返って

「あ、私稽古場はもちろんとして、相手役者に対してすごい失礼なことをしていた」

 と、もうホントに、人としてヒドイ役者だった

 相手役者が喋りかけてくれていたのにも関わらず、それは違くない?

 と納得がいかなーいってなって、

 どっかにもっといいものがあるはずなのに、なぜ来ない!?

 という、役者として、ホントに申し訳ない問題児だった

 もうホントに申し訳ないと思う(何度も言う)

 

 それをどんどん反省して行ったら(まだ全然頑固だけど)

 自分がまっさらになった。

 今日も飲みの席で〔芯〕がなくちゃいけないという話がちらっと出て、

 私に果たして〔芯〕があるのだろうか、と疑惑は増える

 自信、は胡坐をかくことだから、一生いらないけど、

 その座組みにいるためには〔芯〕は必ずいる

 無いと、自分はもちろん、相手役者が八方塞がりになっている時に下手したら自分までもってかれる


 そう、【333】という劇団に客演させていただくのですが、

 その劇団員さんがお二人、あとの七人は客演で、

 ベテランさんの劇団員さんたちと、年長者さんが一人だけで

 あとは筍の背比べとは言いつつも、サカナ、その次に年が上です

 年をとることは、私は好きだ

 それと同時に、一年、二年を、どんな形であれ多く年を重ねていて(この重ねるが、重くなるってことなんだろう)

(別にならんくてもいいんだと思うけど、)ちょっとした、役者として、というより、人として、

 この座組み、の中の位置が、今までとはちょっと違うのかなという、人間性も結構重要で

 若い若いと言われてきたけれど、私より若い子が着実に増えているのを肌で感じて

 先生、先に生きる、という重みとかを、勝手に感じたりしている

 それは私個人の心積もりで、

 何て言いながら、たぶんこの若い子たちが素敵な役者で、私が一番ずったずたになってる可能性が大いにあるんだけどねっ


 しかし、今までより(これでも)そこにいれた

 ちょっとは成長した。もはや人としてとかいうレベルでなんだけど

 前だったらいちゃいちゃとか、ん絶っっっっっっっっ対ムリだった

 もっと無理だった

 いいんだ。サカナのひと泳ぎ進んでんだ。アリの速さのサカナです



 さっき古館さん観てて、

 ホリエモンのニュースに、音声入ってないと思ってたんだろう、

「反省をしていないんじゃないかっ」のようなことを小さく強く呟いたのが、

 ああガツンとやられた

 私はそんな声が聞きたいです


 水泳の飛びこみ日本代表、16歳、馬淵優佳

 素晴らしい演技をする選手で、

 番組内の特集で何か色々もらったのだけれど

 でもこの子、勝負に勝たなきゃならないんだよなと。ならないんだよ

 失敗したら負ける終わる

「試合の結果だけじゃないさ」というのと違いは、プロか否かだと私は思う


 スポーツ選手の練習って実は地味で、でもそれは絶対に必要な筋力やバランスとかを鍛えていて

 それを体得して始めて完璧な試合・演技に挑むことができるのではないだろうか


 そしてそれは、芝居も全く同じだよなと、何年も寄り道しながらたどり着いた


 演劇関係者じゃない人に、芝居をやっていると言うと、まあず間違いなく言われる

「楽しい?」

――いや楽しくねーし

 とこころの中で即答するのだけれど、そのまま伝えたら、私の芝居にたいする考えとか気持ちが全然伝わらないだろうなと「ああ、まあ」(作り笑い)とか、この件が大っ嫌いなんだけど


 練習は楽しむ時間ではない(その中ですごいコトがおきてすごい体験をするというもう何者にも替えられないモノと出会うことはあるが)

 とにかくその本番を成功させる

 練習というのはそのためのプロセス


 だから、練習は楽しくなくていい

 

 ま、苦しいのが嬉しいわけでもなく、

 あー、マジめっちゃ怖い、芝居するのってめっちゃ怖い

 コーワーイー



 そんで通信大学が云々の話は、もう今日ギブなのでまた明日かそこらに

 舞台告知と共にー

 長々と読んでいただきありがとうございます

 只今1:00。二時間も結局書いてしまった……

 福島の酪農家の男性が、原発事故により牛乳を出荷できなくなり、

 経済的にも精神的にも追い詰められたのだろう、自殺した

 この人の、名前が分かりません


 再びタツル氏の同・ためらいの倫理学を拝読して、のこと

――「哀悼」は「人間一般の基本的欲求」というような即時的な情動ではなく、

 高度に知的な緊張を要する企てなのである(120頁)


 この章は「戦争論の構造」というタイトルだ

 300万人の日本人戦死者、日本人が殺害した2000万人の“被害者”

 同じレベルで語ってはならないと

 「外向きの正史」側は2000万人の「無垢」な被害者の死を悼むため

 「内向きの本音」側は300万人を「清らか」な「英雄」として弔うため

 どちらにも言えることは、

弔う以上、死者は「無辜の」「清い」死者でなければならないという前提があるということ

 自分の中の相反するものを、その実共同体の中で分離して、

“どちらが正しいのか”という論議を尽きることなく交わし続ける


 しかしそう語る人たちにとっての、この2000万や300万の死者は、

この世界でかつて生きていた人なのだろうか


「死を悼む」とは

「無名」の兵士一人ひとりに固有の名前と顔を取り戻すと言うこと

 血みどろの死者、死臭を放つ死者、肉と骨をもったまま死んだ人々のなまなましい死を、飾ることなく、ありのまま見つめることから始めよう

 加藤典洋という方の「敗戦後論」を参照しながらタツル氏が語っている


 大岡昇平「レイテ戦記」元本屋として恥ずかしながら存じ上げなかったのですが、

 著者は、フィリピンの一島で戦われたある局地戦の全貌を、価値判断も、感傷も排した記録者の視点に徹底して再構成しようとする


――私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである(『レイテ戦記』上巻 74頁)


 浄化され「英霊」という匿名で集合体で、実体のないモノに対して

 弾を何発撃ったか、誰をどれだけ傷つけたか、その事実から名前のある死者へと呼び寄せる

 そして綿密な記録は一つの結論として、

「結局、一番ひどい目にあったのは、フィリピン人ではないか」

 という平明な知見に達する


(あるいは人を殺したくなど嫌だという思い、あるいは、戦争に積極的参加をしていない現地でただ亡くなった人のはかり知れない思い、戦争で死んでいった人たちにもうどうしたらいいか全くわからない罪悪感とか謝罪したい気持ち、生々しさ、血が流れたとか打たれたとか生きるために自分のお小水を飲んでいたとか)

 その痛みとか重いとか、ものすごい目を逸らしたくなる

 私は何ができるの(どうして何も出来ないの?)

 しかしそれから逃げてはいけない

――「哀悼する」とは、何かを暗がりに押し込めて忘却するための行為ではなく、

   むしろ暗がりに押し込められたものを痛々しいまでに露出させる行為となるはずである(120頁)



 次に参照さて頂くのは「わが町」ソートン・ワイルダー戯曲、ハヤカワ演劇文庫の解説から

(魚意訳)ワイルダーはここにふたつの“真実”を見る

 世界にたったひとつの、ただ一回の個別の出来事という“真実”と

 無数の同じ出来事を含み、それらを要約するような“真実”を

 そして演劇がこのようなふたつの真実を同時に語りうる、最適な表現方法であると、彼は確信していた


 どこにでもあるような町でどこにでもいるような人々による、

 どこででも起こりうるような出来事

  →全てに名前がない、そしてその実、「私」はそこにはいない

一見連綿と続く普遍的な流れだと思うようで、共感がしづらい、取っ掛かりのなさを持て余してしまう


【ニューハンプシャー州のマサチューセッツから境界線を越えたところ

   北緯四十二度四十分、西経七十度三十七分

 この地にある町で暮らしている、他ならぬエミリーが、1904年7月7日結婚式を迎えた】


 この徹底的な特殊化、とても限定的で「個別の真実」

 しかしここにこそ「私たちの日常」はある


 不思議なことに、特殊化すれば普遍化し、普遍化すれば特殊化する



 福島県の酪農家の男性が自殺

 ↑ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 

 フクシマの苦しみが凝り固まり“自殺”という形に「象徴」されてしまった

 匿名化され、その他大勢の中に紛れさせる報道に、

 私は、トーンと突き放されてしまった

 誰でもないその男性の思いが、壁一面の思いが、切り出され編集され、

 その人のことが分からない

 今いるフクシマの人たち、というある集合体、

 死者15000人という集合体

 そして被災された方という集合体

 それは私たちの概念であって、そういうモノが現実に存在しているわけではない

 名前のない集合体と向き合うことはできない

 報道の力というのは、「個人」の痛みをあるいは「喜び」を伝えるためにあるのではないだろうか

「誰々さんが遺書にこうお書きになり自殺されました」

 個人の出来事は“同情”を誘う典型的なことではなく

 私たちがそれぞれ痛い思いをするものではないだろうか

 

 ニュース見て新聞読んで、

 苦しいかろうが痛がろうが、無力・罪悪感・自責を感じ得ようが

 壊滅、した町、津波の映像、たくさんありすぎる問題、

 2011/3/11 14:46 に起こったこと 

 今東日本で起きている現実から必死になって目を逸らさないでいることが

 私なりの「追悼」になるのではないだろうか

 厳しいけど



“二元論では語れない(-^□^-)

      ――複雑で分かりにくい世界の事情☆彡”

 タツル氏にそんな本を書いて欲しい