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断片の集積

日々の断片を記憶に残すために集積する



主にポルトガルでの生活について

僕のまわりの人はみんなやさしいしとても親切だ。

でも同時にとてもしたたかだし、「ずるぃなぁ」と思ってしまう。

やさしさや親切を素直に受け取れない。

人間不審に陥っているかもしれない。

 

やりたいことだけをやっているし、昔と違って人間関係に何の不満もないのに、やる気が出ないし、前向きになれない。

やっぱり限界なんてとっくに超えている。

どこかで何かを手放さないといけない。そうなった時に手放さないようにすべきなのは自分を頼ってくれる人でしょう。

時間が欲しい、自分が3人欲しい。そうすればもっと色々出来るのに。

でも、それは無理な話だから、優先すべきものは決まっている。

それが無理なら、0か100かしかないのなら、やめてしまえさっさと。

そういうつもりで生きるよ。

あと、単純に今のやり方がダメなんだよ。もう俺は何もしたくないよ。

前向きになれないよ。

体が限界なんだよ。

 

今日pcのバッテリーが急に無くなって電源を繋いでいないと落ちるようになった。

俺も同じだよ。全身痛かったり、頭痛ひどかったり、寒気したり、唇がやけに乾いていたりが日常。

そのうち何かの拍子にばたっと終わるかもしれない。ぶっ倒れるかもしれない。

「覚えた憶えた忘れることを

心が折れそうになると思い出すこと

顔を上げて前を向いてても

変わらないものは変わらないものと思う」

 

こんな言葉を歌われて心に染みない訳がない。

こういう感情をこういう言い回しで言える人のことが好きで本当に良かったと思う。

 

こういう言葉に救われる人は多くいると思うが、知らなければ接触できない。

 

今の僕が受け取る「変わらないものは変わらないと思う」の重みと、10年後の僕が受け取る重みと、田中さんが紡ぎ出す時の重みは全く違うのかもしれないと思うが、それでも今このタイミングで僕が受け取るこの言葉はとても重い。

 

自分にとって本当に大切なことを優先させていかないと大事なものを失ってしまうと感じさせられたここ数日。

 

自分を貫かないと時間を無駄にしてしまう。

自分が納得できる形で頑張っていこうと思う。

 

grapevineの新しいアルバム ROADSIDE PROPHET がとても良いという話を書こうとしたら内容がずれていった。

 

何周も聴いてだんだんと裏側にある聴こえにくい音に気がつき出した所。ここまで来て、初めて「今回もやっぱり良いアルバムだ」と言える。そんなバンドがどれだけいるだろうか、今の時代に。

 

巷ではTHUNDERCATという名前をあらゆるところで目にするけれど(実際僕も愛聴しているけれど)、最近はもっぱらサンダーキャネトにはまっております。
shameを聴きながら田中さんにサンダーキャネト、サンダーキャネト言われて弄られている金戸さんを想像してにやけております。

という訳でgrapevineのニューシングルはarma、shameとも最高でした。

アートワークが角田さんに戻らないことはもう諦めたが、今回のように「デザインにこだわってます 」感を出されれば出されるほど残念な気持ちは強くなる。
今回のデザイナーは今までに比べ名実ともある人なのに、それでもこんなもんなのかと思ってしまった。

清宮展とふたしかなその日展に行った。

 

清宮の魅力は色味だろう。

展覧会のフライヤーや清宮の作品集と見比べると本物の色味の良さは圧倒的だ。

また、モチーフは分かりやすいが非常に内面的な作品であることも引き込まれる要因だ。

清宮以外の作品も多くあり

「離れれば離れる程、抽象度が増す作品」(離れて見ると全体が溶け合い柔らかい印象だが、近寄って見ると細かい書き込みがたくさんなされている作品)と

「近寄れば近寄る程、抽象度が増す作品」(オブジェクトの一部を拡大して描いているので離れてみるとモチーフが何か分かるが、寄れば寄る程ただ絵の具の重なりだけが認識される作品)が近い場所に展示されていたのが印象的だった。

こういう作品を配したキュレーターの意図を考えていたが、家に帰ってもらってきた「清宮質文のことば」を読んだら

「父に、美とは無限感のことじゃないかときいたら、そうだ、と言うんですね。(中略)あとで、これは実存感とも同じであることをしりましたけれども」

とあり、なるほどなと。

 

「ふたしかなその日」展は写真の展覧会かと思っていたが、2階の中心に展示されていた、紙で出来た大量の寄せ棟屋根が天井からテグスで吊り下げられた作品(城戸みゆき)が印象的だった。屋根というオブジェクトだけを取り出したことよりも、大量の屋根の密度感に意識が向いた。離れて見れば、それは浮遊する青色の円形平面に見え、もう少し寄ってみるとそれらは小さいものの集合で出来ていることが分かり(屋根はわずかな空気の揺れを可視化しそれぞれに微かに揺れる)、さらに近づくことで瓦屋根がプリントされた紙を折ってつくられた屋根の模型だということが分かる。

 

この作品が面白かったのは別の作品にも影響を与えていると感じたからなのだが、城戸の作品の奥の正面の壁には川久保ジョイの3枚の写真が並べられており、城戸の作品越しに川久保の作品を見ると、城戸の屋根を吊るすための無数のテグスが川久保の写真と重なって見え、そのテグスは雨なのか(その雨には放射能が含まれているかもしれない)空気の粒子なのか三途の川なのかはたまた全く別のものなのかはわからないが、川久保の作品に働きかける確かなノイズになっていた。

川久保の作品は「結果としてあらわれた現象」を提示しその過程を想像させる作品だと思うが、川久保の作品と鑑賞者の間に置かれた(無数のテグスという)いやらしくないささやかなノイズは(その現象を起こすに至った)「過程」へとより強く思いを馳せさせる役割を果たしていたように思う。テグスのノイズが(川久保の作品における)ブラックボックスとなっている「過程」(それは作者ですら知ることの出来ない作品と鑑賞者との間にある断絶とも言える)を表現しているように思えた。

 

ある脆いものを取り込むことで「緊張感」と「循環する反復運動でありながら刻一刻と状況は変わっていること」を示した久門剛史のインスタレーションや2003年に撮られた楢橋朝子の写真もとても良かった。

 

話が前後するが清宮展が開催されている館林美術館は常設でポンポンの作品がいくつか展示されている。そちらも是非見たいと思いわざわざ館林まで赴いたのだ。

ポンポンという彫刻家のことはかなり昔から知っていたが、昔はそれほど興味はもっていなかった。それが変わったのは年始に津田信夫展を見たからである。日本のメタルアートの第一人者である津田はもともと写術的な作品をつくっていたが、渡欧しポンポンに師事した後、影響を受け作品が大きく変わる。

ということで、津田信夫展にもポンポンの作品が数点出展されていた訳だが、ポンポンと津田の差は圧倒的に感じた。

分かりやすく言えば、ポンポンは抽象化しているが津田は単純化しているにすぎない。単純化は出来ても抽象化は出来ない。いかに抽象化することが難しいのかが二人の作品を見比べると分かってしまう。

 

ポンポンと津田信夫、清宮質文展、ふたしかなその日展をみて感じたことは、抽象化するということは解像度を下げるということではないということ。

ものすごく解像度を上げていかないと抽象化は出来ない。

解像度を上げて抽象化することで多様な見方を許容できるし、どこから見ても見所のある作品になるということ。

 

3つの展覧会で、いずれも同じような所が気になった訳だから、きっと今の僕の興味がそこに向いているということなんだろう。

 

解像度を上げて抽象的な建築をつくる。

それは、ずっと考えているニュートラルな建築/多様な状況が生まれる背景となる空間を作ること、を実現させるために必要なことであり、それを言い換える言葉でもあるのだろう。

 

そうなってあらためて思うと、入口から一番奥の展示空間正面の壁で他の作品の背景となりながらも、しっかりとメッセージを発し、ともすれば当作品にとって邪魔でしかないものになりかねない他人の作品を吊るすためのテグスを、自分へ働きかけるノイズとして引き受け、目を向けさせてしまう川久保ジョイの作品の強度はすごい。

どれだけ長く働こうとも全く苦ではないが、事務所の仕事が忙しくて自分の仕事が出来ないのがものすごいストレスだ。

毎日、「今日こそは早く帰って自分の仕事が出来るのではないか」という淡い期待とともに出社し、最終で帰るという日々。

土日は休めているが、自分の仕事の現場と打ち合わせであっという間に終わっていく。
全くスタディ出来ぬまま一週間が過ぎるということが苦しくて仕方ない。

このまま行くと(昔会社を辞めたときのように)「最も大切なことはなんだ?」という自問自答の末、こんなにありがたい会社を辞めるという決断をしてしまいそうだったので、意を決して相談し、今後は週に必ず一日、平日に休みを取ることに決めた。
安定収入は減るが、自分の仕事が増やせればそれに越したことはないし、何よりこれでストレスがなくなれば最高で会社での仕事にも好影響が出るのではないかと思っている。

昔、「頼まれごとは試されごと」と伺ってからどうしようもないこと以外は断らないことに決めたが、これからはもう少し柔軟にいこうかな。
自分を大切に、楽しまないと意味ないからね。