ありがたいことに友人からチケットをいただいたので早速ホキ美術館に行ってきた。
着いて最初の驚きは駐車場にあふれんばかりに車が停まっていることと、美術館の周りにぎっしりと郊外一戸建てが立ち並んでいること。
ホキ美術館は昭和の森の内側に建設されたのだと思っていたが、実際には森の隣に建設されている。そして、美術館の敷地は細長く、その面積いっぱいに建物が建っているという印象である。
浮いている2Fの細長いヴォリュームと前面道路との間は50cmほどしかないのではないかという感じ、そしてその道路の向かいにはすぐに一戸建てが建つ。ここまで敷地に余裕のない現代美術館建築ってそうそうないのではないか。
ぐるっと建物の周囲を一周してから、美術館内に入る。あらゆるところに「撮影禁止」の看板が立つ。受付のお姉さんに「作品が展示されていないいところもカメラ禁止か?」と聞いてみると「そうだ」とのこと。 やっぱりねという感じだけれど、ちょっと残念ではある。
館内にもお客さんがたくさん入っている。オープンして一週間程度とはいえ、月曜の昼間にこれだけの人がいることにびっくり。
まず、作品は眺める程度にし、建築を見ながらゆっくりと順路を最後まで辿る。基本的には順路は明快なので、特にサインで順路を示す必要はないようだ。
ただ、一つ気になったのは受付向いの壁面に貼ってあった展示室を示す平面図のキャプションが英語しかなかったこと。それがいくら簡単な「gallery」「cafe」といった類の単語だとしても、やっぱり問題だと思った。 バイト先で口を酸っぱくして言われた後だから余計気になったんだと思うが。
さて、建築についてまず感じたことは「これはデザイン先行で作ったのかな」ということ。この建築がこの場所にある必然性をあまり感じなかったし、これが例えば栗生さんの清里写真美術館が建っているような場所とか、せめて同じ千葉でも川村美術館が建っている場所のような鬱蒼とした森・山の中にあったらもっと気持ちいがいいのになと。せっかくの風景を切り取る窓もその先に見えるのが郊外住宅や駐車場では残念だもの(シュールで、ある意味面白いと言えば面白いのだけれど)。
そして、その「デザイン」というのは形態の面白さを追求したというよりは、絵画美術館の純粋さを追及したところから生まれているのかなと思った。
絵画を展示するのには広いスクエアは必要なくて、両面に壁を持った「道」が続いているのが最も効率が良いし、鑑賞するほうも作品を見落とすこともなく、純粋に絵画と対峙できる。そのことを突き詰めた結果がこの形態を生み出したんだろうなと思った。そう感じられたからこのデザインに疑問は全く感じなかったし、嫌な気もしなかった。
さて、この建物がこの敷地に建つ必然性は感じなかったが、窓の開け方や壁の立て方など細かい部分においては、ちゃんとこの敷地を読み込んだ設計になっており、そこはさすがというかすごいなと感心した。
ただ、そのように敷地との整合性をとったことで、空間は自閉的な印象が強くなっており、もし自然豊かな敷地に立っていたなら、空間もプランニングから受けるような伸びやかで広がりのあるものになったのではないかと思ってしまった。
また、LEDとハロゲンを組み合わせた照明(調光しても色温度が変わらない)というのが一つのアピールポイントのようだが、これはとてもよかった。天井に開く無数のドットの中に照明が仕込まれている(照明の入っていない換気や冷暖房に使われていると思われるドットもある)のだが、このドットの粗密が天の川のようでちゃんとデザインされていて美しく、何よりも絵画を見るときにいらっとする展示ケースに光や鑑賞者が写りこんでしまい、よく見られないということがほとんどなく(全くないというわけではない、ただほとんど気にならないレベル)、ストレスなく絵画を見ることができた。
もう一つ良かったのはB2Fの暗い展示室から見える階段の裏側。階段の裏をどう有効活用するかというのは難しい問題で、その解としてああいうやり方を考える人は結構いると思うけれど、あの規模で実現されている例というのは稀だと思う。そして、実現されてみると、階段のスリットから入る光はとても劇的だということが分かった。
もちろんそれは光の効果が有効になるような真っ黒な暗い部屋が用意されているからであるし、階段との接合部が視覚に入らないような接合の手前に天井を一度緩やかなカーブで落としてやるという操作などがなされていることによる。
白い展示室の壁とバッファゾーンのコンクリートのテクスチャーそのままの壁に断絶が起きないようにコンクリート壁の上に薄い→濃いとグラデーションをかけながら白いペンキを塗ったり、展示室から見える外部屋上部のコンクリート打ち放し部分にスリットで模様をつけ、そのスリットがそのまま壁につながるように、壁にも細かい意匠的なスリットを入れたり、外部にあらわれてくるヴォリュームの長方形の開口も美しく見えるよう厚みを調整したりと、ちゃんと建築が建築として美しく見えるようにものすごく繊細にデザインしているなと思った。
満足して美術館を出ようとすると受付の前におばさん達。壁面の平面図を見ながら、「ちゃんと全て見たのかしら」「見落としてそうよね」と会話している。
近くにいた係員が、このお部屋はこういう作品が展示してあったお部屋ですね」と説明して、「じゃあ、ちゃんと見たわね」「よかったわ、ありがとう」という結論に達していたが、この会話は美術館の特徴を一つ的確に示唆していたように思う。
導線は単純でわかれ道もほとんどないため、普通に作品をたどっていけばちゃんと全部の部屋を廻り戻ってくることができる。
しかし、同じような細長い空間の連続は自分の居場所、現在地に対する空間把握を難しくする。展示室内で「なんだか迷路みたいだね」という会話を僕は2回も聞いた。
この美術館で迷うということはあり得ない(一か所だけ全部の作品を見終わり、エントランスに戻る過程で「迷いそう」なところはあったが)。それでも、鑑賞者に「迷路の様だ」と感じさせるのは細長い通路のような展示室や、何度も360°近くの回転を要する導線といった空間の質によるものであろう(途中から外部との接続は一切断たれる、トップライトから光が差し込む空間は存在するが)。
また、分かれ道が無いからこそ、パンフレットで順路や現在地確認をする必要もなく(迷路みたいだと会話していてもパンフレットで現在地を確認しようとはしない、この美術館ではパンフレットやフライヤーといった類のものを館内で確認している鑑賞者は他の美術館と比較して極端に少なかった)、それと空間が相まって俯瞰的な視点で自分の居場所がわからなくなる迷路の中に迷い込んだような感覚をもたらしているのだろう。
最後に建築的な部分とは離れるがこの美術館では作品に対して与えられる情報はタイトルと作者、制作年だけであった。音声ガイドなんてものはもちろんないし、油彩なのかアクリルなのかジェッソなのか砂を混ぜ込んだのかといった情報もない。常々、作品を決して「観よう」とはせず「知ろう」としかしない大多数の日本人に嫌気がしていた僕は、この美術館の「とにかく作品を観てくれ」という思いをそういう部分や建築のデザインからを勝手に感じ取って、とっても好感をもった。
以上、ホキ美術館の話。そうそう、ミュージアムショップのポストカードを並べる棚は建築の壁面に一体化してデザインされていて、デザインはかっこいいと思ったけれど、もうひび割れが起っていた。ちょっと心配ではある。
受付から最初の展示室へと向かう途中に出会う開口部
外に見える景色はやっぱり郊外一戸建て
以下、リアリズムの話。
ちょうどホキ美術館に行く3,4日前に知り合った藝大生とリアリズムの話をしたので、そのことも踏まえて作品を見た。
彼女によれば今またリアリズムリヴァイバルが起りそうな予兆があるとのこと(このホキ美術館オープンもそういう流れと無縁ではないだろう)。
僕はそれを奈良さんやタカノ綾といった「カワイさ」や「わかりやすさ」の乗り越えとしてのリアリズムなのかと思って、「それは社会のどんな欲求を反映しているのだろう、とても面白いな」と感じたのだけれど、彼女は「それは訳が分からなくなった現代アートに対するカウンターとしてのリアリズムなのでは」という。
そうなると、リアリズムへの欲求という意味では理解はしやすい。とにかく、今社会は分かりやすさを求めているという実感がある。それも深層を排除して、表層だけを捉え、「こういうことでしょ」と勝手に決め付けてしまうような雰囲気が。
うまく言えないけれど、何層にも重なった複雑な世界を一つ一つひきはがしていって何とかしてその世界を分かりたいという欲求ではなくて、誰かがその世界を分解して単純化し、再構築しなおしたものの、さらにそのうわべだけをパッと手に入れて、理解したつもりになる、安易な「分かりたい」欲求みたいなものが渦巻いている。
でも、その感覚を直接的に表現しているのはタカノ綾をはじめとする漫画的な表現や幼児性だと思う。タカノ綾たちは僕らの世代のヴァーチャルなつながり、つながっているようでつなっがているのかわからないもろさ、刃向かいつつもあきらめているような感覚みたいなものを「分かりやすく」表現している。
しかし、今リアリズムなら絶対にそこの乗り越えがあるのではないかと思った。
それを何とか見いだせないかと思いながら作品をみていった。
その結果、思ったことは、「リアリズムはリアルだ」ということ。
世界に「分かりたい」欲求が充満している理由を考えてみると、今僕らがメディアなどを通して「知っている」事実が本当に真実なのかは確証がないということなのではないか。真実に近い何かではあるがそこには恣意や意図が間違えなく入りこんでいる。そのことをみんな知ってしまったから、何にも確信が持てなくてもやもやしている。
例えば写真だって少し触れば、あったものをなくしたり、なかったものを足しあわせたりできる。そういう操作が僕にだって出来てしまう。
そういう理由があってのリアリズムリヴァイバル予兆なのではないか。
もう一度整理してみると、リアリズムが盛り上がってきそうな理由は「分かりたい」に応える「分かりやすさ」を持っているという観点ではなく、「確信が持てない」世界において、「信じられる確固たる強さ」があるという観点からのものではないのかということだ。
では、「リアリズムはリアルだ」、「信じられる強さがある」とはどういうことか。
現代において、写真はほとんどがデジタルになっている。そのおかげでたくさん写真を撮ることが可能になったし、PC上で加工することもたやすくなった。
もちろん、写真はたいていの場合、真実を切り取っているけれど、どんなに美しい写真を見ても、「これも加工しているのかな」という観念を持つようになってしまった。
写真に対しての不信感とも言える。
一方の絵画。
事実を伝えるのなら写真をとればいいというのは未だ事実だろうし、リアリズムといっても、描かれた作品が目の前にある事実を切り取っているかというと、それは定かではない。
しかし、リアルな絵を書くのにはそれなりの時間とテンションと緊張感を要する。そして、そのモチーフと向き合っている時間というのは間違いなくリアルである。
そういう、「作者とモチーフという関係の間に存在するゆるぎないリアルさ」には写真には持ちえない強さがある。
一般人にとって「作者の作品に対峙するリアルさ」が最も分かりやすいのがリアリズムなのだと思う。鑑賞者にとって、リアリズムは「描かれている風景・状態」が真実かどうかにかかわらず、圧倒的にリアルなものが描かれていると感じられ、作品を疑うことなく信じることができる。それが安心なのだと思う。だから、リアリズムリヴァイバルなのではないか。
だからこそ、リアリズムには可能性があると感じた。もっといろんなことが伝えられると思った。
まず、もっと多様なモチーフに踏み出すべきだと思う。
もちろん、女性の美しさ描きたいのはよくわかるし、写実的に描かれた女性が他のどんな方法で描かれた女性よりも美しいのには同意する。
しかし、だ。
タカノ綾の絵にはファミリーマートや洋服の青山が出てくる。奈良美智は戦争反対や酸性雨の危険を描いている。
一方で、ホキ美術館で見た作品はそのほとんどが何十年も何百年も変わっていないようなモチーフのものがほとんどであった。
感覚的なリアルさはネオテニーの側にある。
絵画は「現代」を描くことで変わってきた。印象派だって、「カメラの出現で絵画の意義を問われた」から生まれてきたというよりは、産業革命により時間の感覚が大幅に変化して、一瞬では捉えきれない情景を捉えようとした」から生まれたんだと思っている。「いま」を描きたいという欲求が絵画のスタイルを変えている。ヴァーチャルで捉えどころのない、つながっているんだけれども繋がりきれていないような僕らの感覚を描いた時代を越えて、もう一度社会は「確固たる強さを持って繋がりたい」と求めている。そして一回りしてリアリズムに戻ってきた。
その時に美しい女性や自然や花や、というのは安心感は与えるけれど、もう少し別のことを描いてほしい。
ロードサイドや高速道路の下といった風景、戦争や対立やホームレスや。
決して美しくなくていいから現実を突きつけて欲しい。嫌われるかもしれないけれど、今ならそれができる。リアリズムによって心臓を裏返すような心にざらざらとした衝撃を与えることが。
それがリアリズムの役目だと思う。
今しかない。
まとまっていないがリアリズムについて考えたことである。






