そろそろ課題のことも考えなければならないなと思いながらもずっと日本から持ってきた日本語の都市の本を読んでいた今日、夕方になってやっぱりやばいと本を見にカイス・ド・ソドレの建築会館の本屋に行く。
そして2時間くらいアイデアの断片を探してずっと雑誌を眺めていた。いくつかきっかけになりそうな手掛かりと出会うことは出来たけれど、買おうと思えるまでの本とは出会うことができなかった。
なんだか無駄な時間だったかな、いやいやずっと部屋の中にいるのはよくないしアイデアの断片も少しながら見つけることができたし、こうやって外に出てくることが大切なのだなんて思いながらふらふらと歩いてロシオのほうに戻ってくる途中、ふと、そういえばこの前、前を通った時にずっと工事で囲われていたコメルシオ広場の柵がとれていたよなってことを思い出して立ち寄ってみる。
まだ工事中だけれど、完全に視界を遮るように囲いを作っていた柵はなくなりもっと小規模な視線の抜ける柵に代わっていたため広場に出た瞬間に川まで視界が開けて気持ちよく、そして柵のわきを抜けて川岸まで行くこともできるようになっていた。
ちょっと嬉しくなって川まで行ってみると広場の正面には平安神宮の鳥居のように二本の柱が立っており、その柱の間に向かって川の中へと続く階段が設けられていた。その階段の水面に一番近い段まで行って寄せては返す夕暮れの波を見ていたらなんだか切なくなって泣きそうになった。改めてリスボンいいところだなって思った。
人はどうして悲しくなると海を見つめに行くのでしょうか 港の坂道かけ下りるとき涙も消えるというのでしょうか
という歌があるけれど、海を見に行ったら泣いてしまうよ。海は広くて大きくてすべてを受け止める母のようでもあるけれど、その先はどこに通じているのか分からないし深くて奥底に闇を抱えていて何処までも吸い込まれて行きそうで怖い。そういうなんだか複雑なもの、ときによっていろいろな感情をもたらしてくれるもの、こういうものだってはっきりと言いきれないもの、そういうものがとても好き。
なんかね二重人格って言われるかもしれないけれど、そういう存在でいたい。つかみどころのない存在でありたいし、だれにもよりかからない根無し草でありたい。ほんとはたくさんの人に支えられていること、誰かがいないと生きていけないことを分かっているからこそそう願う。出来る限りしっかりとした自分でいたいと。そんなことを考えていた。
で、もう一つ感じていたことは、夕暮れ時にあの階段から見たテージョ川はもはや海だろってこと。波は寄せては返すし、ほんとにでっかいし。これからもちょっと気持ちを落ち着けたいときや気持ちを切り替えたいときにあの海沿いのような川沿いに行こう!それはきっと僕に良い影響をもたらしてくれるはずだ。
それから、最近何故かJpopばっかり聴いてる。youtubeとかで検索してね。今日はなぜかネット上をふらふらしてたら現れた懐かしいバンドを聞いてた。夏の幻とか二人のロケットとか高一のころを思い出すな。友達が好きで貸してくれて俺も聴いてたな。挙げた二つの曲はすごく好きだった曲で改めて聞いてもいい曲だしいい歌詞だな。青春だなって思った。
でね、映像を見ていて思ったんだけれど、その人が笑うだけでこっちまでうれしくなって思わず笑みがこぼれてしまう人っているよね。僕はライブで淡々と真剣に歌っていたそのバンドのボーカルの人がふっと笑顔を見せたときになんだかとてもうれしくなった。そういうことってとても大切なことだよね。かわいいとかそういうことじゃなくて何故かこっちもすごく自然に笑みがこぼれてしまう。
微笑み一つで相手の人まで笑顔にしてしまうマジックってすごい。というかもう笑顔でいるっていうことがそれだけでもうものすごく素敵なことだしマジックみたいなものか。
笑顔、笑顔。街に見る笑顔
ほら、笑顔。泣き顔も笑顔
ほら、笑顔。辿り着く笑顔
あぁ、目の前の笑顔