それでもサッカーが好きだということ | 断片の集積

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建築の旅行の話の前にもう一つ。


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この写真はイタリアのある画廊のショーウィンドウに飾られていたものです(その画廊の入っていた建物も建築を学ぶものにとっては外せない重要な建築なのだけれどそのことはここではふれない)。


キャプションもついていないからどこの国の写真なのかわからないし、彼らの来ているユニフォーム(マンUとデポルティボ)というのがどういう意味を持つのかもわからない。

しかし写真から想像できることはいくつかある。それはいちいち僕が語ることではないけれど、彼らは地雷(それがたまたま街に埋められていたのか戦場で被害にあったのかはわからないが)を踏んで片足になってしまったけれども、残った一つの足と両の腕という新たな3本の足で必死にボールを追い、サッカーを楽しんでいるということである。


彼らは決して有名な選手ではないし、子供たちに夢を与えることができるわけではない。けれど彼らは誰よりもサッカーを愛する気持ちを持っていることを僕たちに示しているし、どんなに困難な状況に陥っても気持ちさえあればサッカーを続けることができることを教えてくれる。


僕が昔小学生のころ理由は忘れたけれどもコーチが怒って、目が見えずにサッカーボールの音だけを頼りのサッカーをする子供たちの話をしてくれたことがあった。その時にコーチが伝えたかったことと僕がこの記事で伝えたいことは多分一緒だと思うけれど、僕たちは五体満足であるということをあまりにも当たり前のことだと思い込んでいるし、それはたしかに当たり前のことかもしれないが、当たり前のことがいかに幸せなのかということをもっとかみしめなければいけない。


もちろん気持ちさえあればどんな状況になってもサッカーは出来る。そのことをこの写真はよく示している。だけどね、こういう気持ちを抱くのは不謹慎かもしれないけれどね、やっぱり五体の先まで神経が行き届いて、血の通った自分の体で地球の上に立ち走り回れるということは本当に幸せなんだってことをしみじみと感じる。


子供たちには楽しんでサッカーをやってほしいし、楽しむっていう気持ちが一番大事なことなんだけれど、世界にはこういう人がいることを知ってほしいし、サッカーができることを当たり前のことではなくてすごく幸せなことなんだって気づいてほしいし、もっともっとうまくなりたいって思ってほしいし、うまくなってほしい。

今はまだ何とも思わないだろうけれど、五体満足にサッカーができるってことだけでも幸せなのにいいスパイクやユニフォームを買ってもらえるという(比較的裕福な)経済状況の国家にいるということや毎週送り迎えしてくれる親御さんたちがいるということが何と幸せなことか。


この年になってやっと気づくことも多いし、サッカーから学ぶサッカー以外の側面のことはたくさんある。そういうことが実はとても大事だったりする。サッカーは少年を大人にし大人を紳士にする。クラマーの言葉だけれどこれは的を得ているね。まあでもそれはサッカーでなくとも集団でやる何かに打ち込むことでも同じだと思うが。人との付き合い方を知ることは集団という相対的な中でしか人は存在できないことを知ることでもあり、その中でちゃんと自立するということでもあろう。


いろいろ書いたけれども本当にサッカーが好きということを実感した旅でもあった。

これからもサッカーを愛していきたいし、サッカーから学ぶことを大切にしていきたい。そしてサッカーは楽しいということ、サッカーができる喜びを子供たちに伝えられたらと思った。


それから、それから、この旅行中イタリアで本場のセリエAを2試合見てきた。その話はまた後で。