忘れないように書いておきたいことがたくさんありすぎて何から書けばよいのかわからない。段々このブログを読んでくれている人が固定化してきている気がする。そしてそういった人たちはいつもちゃんと読んでくれているようである。それを考えると、あまりにも長いブログを書くのは申し訳ない気がするが、自分のためにこのブログを書いているという意識が強いし、そういう体質だからしょうがない笑 で、この話を書いたから、ここから行こう。
トライセラトップスの和田唱のブログに「っていうかいちいち気合いの入った文章にする必要ないんだよね!!日々2~3行ちょろちょろっと書くスタイルにも憧れるんだよ。でもどうしても気合いが入っちゃうんだね。性格かな。でもなるべくその憧れを実践してみるよ!」と書いてあるらしい。僕もほんの少しの文でいいから毎日書くということを日課にしたいとは常々思っているのだが、課題が忙しいと面倒だったり、そんな時間がなかったりしてかけず、一方、書き出してしまうと書きたかったことがたくさんありすぎてまとまらなくなってしまう。で、この和田唱の話は彼のブログを見ていたわけではなく、中村貴子さんのブログで発見した。そこからの孫引きである。なぜ、中村貴子ブログを見ていたかというと、NICOのホームページで新曲情報を見ていて、そうしたらブログにOFW,WFOの話が書いてあり、久々にどうしても聞きたくなって、ストリーミング放送を聞き、bay fmのことを考えていたら、木曜モザイクと中村貴子さんのことを思い出したという流れである。木曜モザイクはすごい番組である。一時間半もぶっとうしでアーティストの生インタビューが聞ける番組なんて中村さんの番組以外に中々ないし、彼女の人柄があるからこその素直な本音が飛び出すトークを聞けることができる。中村貴子さんは知らない人には全く知られていないのだろうけれど、知っている人にとってはある意味で憧れの人であろう。たくさんのアーティストのことを知っており、そして(ここが最も重要なところなのだけれど)その誰からも愛されている。そんなひとは他にはいない(でしょ?)。木曜と火曜のモザイクを聞けるということはベイエリアに住んでいる特権だと思う(残念ながらほかの曜日のモザイクは聞いていてパーソナリティにイライラしてしまうので聞かないが)。今でも覚えているのが(どちらも割と最近なのだが)おとぎ話の有馬さんがジングルに大興奮していたことと、中村一義に中村貴子が「小岩と京都で出身は違うけれど、もう親戚と名乗ってもいいんじゃないかと思うほど親しみを感じる」と話していたことである(このときのトークはものすごくおもしろかったが、この回のラジオから流れる100sの曲を聞いてニューアルバムを買うことをためらった。よいのだけれど、前回のアルバムほど僕の中でしっくりと来なかったこと、それが佐内さんの写真集や横浜聡子さんのPVに勝っている気がしなかったからである。佐内さんの写真のためにCDを買うというのもありだとは思うけれど、やはり音が聴きたいからCDを買うというのが本来のあるべき考え方だと思うし、そういう意味でためらってしまったのだ)。で、話を戻すと、中村さんもいつも「何時間かけて日記を書いているんだろう、私」というくらい時間をかけて長くて素敵なブログを僕たちに届けてくれているらしい。僕もまた然りなのだ。書き出すと、書きたいことがとめどなく溢れてしまうのである。この「長い文章を書いてしまうことに対する言い訳」がもう既に長い笑
で、前々回のブログの終りに少しだけ書いたのだけれど、NICOの新曲が出るらしい。youtubeで早速チェックしてみた。最初の感想としては「こんなんじゃフランプールと変わらないじゃないか」というもの。別にフランプールが嫌いなわけではないけれど(Helloとかlaboとか好きな曲もある)、NICOにはそっちじゃない方向へとベクトルを向けてほしいという個人的な思いがある。最近のNICOは売れる曲にシフトしている気がして、昔から応援している身としては少し残念なのです。それで、でも何度か聴いているうちにやっぱりフランプールとは違う、いい!と感じてきた(こう書くとやっぱりフランプールが嫌いみたいだ笑)。何が違うかって言うと曲の厚みだと思う。それぞれが違ったフレーズを弾いていて、それが寄り集まって一つの音楽をなしている。これの究極がバインだと思う。バインの曲は一つ一つの音のフレーズが際立っていて圧倒的で、全ての音に無駄がない。フランプールとかを聴くといくつかの楽器が同じ音、同じコードを弾いているからすごく無駄が多く感じるというか、余計な音が鳴ってるなあ、いらないなあって感じてしまうのだ。まあ好みの問題だと思うけれど。NICOの話に戻ると坂倉氏のベースはサビで高音に抜けていくことがいくつかの曲であって、それが心地いいなと思っていたけれど、今回もそういう気持ちいい箇所がある。基本的にベースのフレーズはいつもすごく好きだ。それから、やっぱり歌詞がいい。「いやらしさにあふれた かりもののなぐさめより そっけない素振りが 君の答えならいいのに」という歌詞が聞き取れたのだけれど、こういう歌詞を歌ってくれる人ってあまりいない。特にいわゆる売れている人の中には。そりゃわかりやすいほうが人の心にすっと浸透していくかもしれないけれど、失われていくのも早いし、人生ってそんなにわかりやすくないだろうって思う(これはこの間ミスチルを聴いていて思った)。だからこういうフレーズがあると心が揺さぶられる。そっけない素振りじゃ物足りなくて、本当はもっと強く求めているのに、そこをあえて言わないというか、あえてそこを求めない、ある意味での強さとある意味での弱さを感じてすごく切なくなる。あくまでこれは僕の感じ方であるが。
アルバムが楽しみであるけれど、全曲通して聴けるのは日本に帰ってからだろう。日本に帰ってからの楽しみに取っておく。
話は大きく変わって、前回書いた建築における恣意性の話。あの後考えていて、恣意性ではなく作為性という言葉を使うと前回の話は結構しっくりくるのではないかと思った。恣意と作為的を広辞苑で調べてみると、
恣意:気ままな心、自分勝手な考え
作為的:わざとこしらえるさま。また故意にそうしたことが明らかで不自然なさま
と書いてある。前回の話はまさに作為的という言葉がふさわしいと思う。たとえば石上さんの神奈川大の工房だって、ユニバーサルスペースに細い柱を無数に建てることで手掛かりを与えようとしている。そして、そのとき、柱が作為的にならないようにひたすらスタディしている。やはり、現代日本の建築家思想として、空間に手掛かりを与えること、その上で空間が作為的でないことというのは一つの大きな注目すべき点なのではないかと思う。そうなると前回の話の結論は、「建築が恣意的であることは当たり前であるし、自然なことで、建築から恣意性を排除する必要はない。しかし、空間が作為的になることを恣意的に排除する必要がある」ということになるか。まあ、こういうことを日本にいたらここまで意識していなかったと思うので、留学の効果は確実にありますね。思考の幅が広がった気がする。
最後にもう一つだけ。ポルトガルの学生は英語の文法が間違っていることも多いし、この間、プレボを英語で統一しようということになって、書き出したら、綴りが全然違っていたりする。でも、結構すらすらと英語をしゃべる。やはり、トライすることに重要性を感じる。日本の英語教育は間違えないことや正確性、完全さを教えようとするけれど、ちょっとくらい間違っていたってどんどん話した方が絶対英語はうまくなる。そう思う。最近、課題をするためにポルトガル人10人くらいの中に日本人一人まじって遅くまで作業をすることが増えてきたけれど、そういうときは本当に楽しい。日本人が周りに4人いるという状況はすごく心強いし楽しいけれど、語学のことを考えると弊害になっているなって思う。
でもトータルで見るとやっぱり心強い。ありがとう。
それから、課題のために描いた手書きパースを一応載せておく。もし、王宮が完成していたら、現在の道からどのように見えるかという絵である。割と、好評だった絵である。個人的には、この、「もし王宮があったら」という話はここまで大げさにしなくてもよかったのだけれど。
また長くなってしまったね。
