ささいなこと | 断片の集積

断片の集積

日々の断片を記憶に残すために集積する



主にポルトガルでの生活について

正直言ってブログを書くのが面倒な時もある。ネットの接続は悪いし、まがりなりにも誰かが読んでいると思うと適当なことはかけないし。

しかし、そもそもこのブログは日記のようなつもりで始めたのだから、些細なことでも思った事をそっと残しておかなくてはならない。書くべきことがたくさんあったなと思って書きだしても、結局そのほとんどは些細なことで、忘れてしまっていて、思い出すことができない。そんなに短期間で忘れてしまうようなことなら、わざわざ留めておかなくてもよいではないかとあなたは思うかもしれない。もちろんそれも一理ある。本当に大事なものなら記憶から抜け落ちないだろうと。しかし、そういったくだらないささいなささいな感情や気付きこそあとで見返したときにこの留学中の記憶を取り戻す重要なエレメントになるような気がするのである。だから、これからは本当に些細なことでさえも書きとめていきたいと誓うのである。そう考えるとtwitterを考えた人はすごい。そして、twitterをやる意味が今まで僕にはわからなかったけれど、みんな自分の記憶をとどめておくために、日記にするほどでもないちょっとした感情や気づきを留めているのかなと思ったらtwitterも面白いのかなと思った。でも、それに時間をとられるのはどうなんだろうとも思う。ブログを書くのも実は結構時間をとられている。すべきこと、大事なことは何なのかをうまく見極め、強い心で判断していかなければならない。


さて、今までのはほんのささいな呟きみたいなこと。そしてこれから書くこともたいしてそれと変わらない。


まずひとつ。友達がスタジオで日本人の建築家の思考、デザインプロセスについてプレゼンしなければならないということで、何人かの現代日本人建築家をピックアップして、彼らの思考の日本独自なところって何だろうという話をしていたのだけれど、そこで出て来たのが「手がかりとしての建築」というキーワード。日本の最近の建築家は建築を作ることで何かの「きっかけ」を与えようとしている、その「きっかけ」を作るということがテーマになっているのではないかという話。「きっかけ」=「手がかり」である。一番顕著な例は青木さんだろう。青木さんの「遊園地」「原っぱ」「野原」というたとえが一番わかりやすい。ここではこれをしろ、あそこではあれをしろというのがはっきりしている空間(遊園地)でもなく、ユニバーサルな、ただのホワイトキューブだけ作って「ここでは何だってできます、あとはご自由に」という空間(野原)でもなく、できることもできないこともあるけれど、うまく利用することで、面白いことができるような、可能性をもった、使う人をインスパイアさせる空間(原っぱ)を作ろうとしている。そして、その空間を作るうえで、たくさんの思考とたくさんのスタディがなされているにもかかわらず、あたかもそこには恣意性が介在せず、ささいなことでふっと生まれたかのようなふりをしている。

空間から、「ここはこういう風に使ってほしいのね」っていう意志が見えてしまったら、それは原っぱ的な空間ではなくなってしまうから、そういうふりをするのは仕方ないとは思うのだけれど、恣意性にこれほどこだわる意味ってあるのだろうか。この恣意性っていう部分も結構昔から個人的には気になっているところである。(青木さんはそんなに恣意性にこだわってはいない。でも、「自ずとそうなった」みたいに青木さんがいくつかの作品の解説で書いていたと思うのだけれど、その時の「自ずと」っていうのが「コンテクストを読んだ結果」というのではなくて、もっと、コンテクストとかコンセプトとかとは違った次元で、ほんとにふっと自然に何かが生まれて、それをそんなに悩まずに推し進めていった結果出来た、「自ずとできた作品」と言っているように感じる。これは恣意性が介在していないという主張とは多少違うけれど、、考えすぎていないことの主張というか、そのデザインは僕の意志というよりは、ふっと降りてきたものに従っただけだということを主張しているように感じるのだ。)

もうひとつ話題に上ったのは千葉さんのWEEKEND HOUSE ALLEY。こちらは三谷さんとの対談で千葉さん自身が「小道は、軸線上に大島があるというふうに、恣意的に位置を決めるようなことはしていません」と述べている。この建築で千葉さんがやりたかったことは、「“恣意的に”全ての道の価値を等価にする」ということなのではないかと僕は感じた。千葉事務所のHPの図面では巧妙に隠されている、大きなスケールの中でプランを見ると、意外と小道が周りのコンテクストとを引用していることが分かり、友達とコンテクストを手がかりにして小道を引くのではなく、もっと無作為な小道が新たな手がかりを作り出していた方が面白かったのではないかという話をした。いずれにしても、これも小道によって小さな街を作り、そこに機能を限定しない空間を配することで新たなきっかけを作りだそうとしている。そして、そのうえで、この小さな街が建築家の恣意性によってではなく、あたかも自ずと集落ができたかのような説明をしている。この、新たな街というきっかけを作る時に千葉さんが考えたこと(考えたであろうと僕が勝手に想像したこと)で、面白いなあと思うところは、もし、一つの小道が海に浮かぶ大島と山を結ぶような何かしらの象徴性をもってしまったら、その軸が優位性を持ち、そうなると街にもヒエラルキーが生まれ、ALLEYという建築から純粋な空間としての手掛かりが失われてしまうということ。だから、すべての小道は等価でなければならず、小道は象徴性をもってはいけないということ。すべての道が等価であるという考え方が日本的で面白いなあと感じたのです。


さて、で、恣意性の話なのだけれど、僕は、建築においても都市においても恣意性は介在してよいと思っている。恣意性の介在しない建築や都市なんて存在しないし、建築家が線を引いた瞬間に恣意性は存在する。しかし、その恣意性ってのがあまりにも強すぎたり、自分勝手だったりすると、それはちょっと違うよねっていう気持ちになる。卒業設計でも「恣意的にデザインされた住宅群でありながらも、そこがあたかも集落のような、恣意性をあまり感じさせない住宅群を作ることができないか」と考えていた。だからこそ、あえて、かなりの広範囲にかなりの量の建築をルールやパターンによらず設計してみたのだ。それは良いとして、ここで難しいのは、恣意性ってのはなんなのかということである。もちろん、恣意性というのは建築家の意志のことであって、これはどんな建築にも存在する(たとえ、パターンやアルゴリズムを用いていたとしても、どんなパターンを用い、どんなプログラムを採用するかは人の意志による。それから、まず僕の考え方の前提として、ルールやパターン、アルゴリズムに頼るより、人の意志によってコンテクストを読んでいった方が絶対に都市に対して素直な良い建築ができるだろうっていう確信みたいなものがある。たとえ、コンピュータの技術が進歩してもである。コンピューターはうまく使いこなさなければならないし、コンピュータが出した、目に見えない確固たる情報(たとえば風の流れとかエネルギー消費とか)を理由づけにデザインを決定してはいけないと思っている)から別によいのだけれど、恣意性を隠す方法と言うか、許容できる恣意性みたいなことを考えたときに、この千葉さんの言葉がやけに引っかかったのだ。先にも少し書いたが、僕はその恣意性を隠す方法の一つがコンテクストを読み、従うという方法だと思っている。しかし、この千葉さんがALLEY行った方法と言うのは、周りの道路や街区、海や山というコンテクストを読むという方法で、それは良いのだけれど、千葉さんが恣意性と言っている大島に向かって軸を引くというのも一つのコンテクストの読み方なのではないか。となると、コンテクストを読み、それに従ったとしても、その読み方次第では強い恣意性が生まれることもあるということになる。それは受け入れがたいほどの恣意性となって表れるのだろうか?確かに、一つの強い軸を引くということはそこにある種の権力や設計者の意志を発生させることになる。しかし、その軸の先にあるものが一つの島であっても、それはそこまでの強い象徴性や軸性を持ちうるのであろうか。


ちょっとこんがらがってきたからもうやめるが、今やっている課題がモニュメントについて考える課題なので、反動でもう一度、恣意性の排除ということについて考えてみたくなったのだ。


ふたつめ。今やっている課題はベレンにおけるモニュメントエレメントを取り上げて、それらの現在におけるモニュメント性や歴史、周りとの関係性などについて分析するという課題なのであるが、僕らのグループが考えなければならないエレメントが、内陸部にある王宮と川岸にあるバロック広場をつなぐ道なのである。王宮と広場はモニュメント性を今でも持つが、この道は現代ではモニュメント性をもっていないと思う。それは本来この道は王宮の正面入り口がアイストップになり、そこに向かうためだけの、終わりのある道であったのだが、王宮がフランスの襲来や革命による王制の終結などにより1/3しか完成しなかったため、道の終わりには何もなく、道の周りにはそもそもは王を守るために出来た軍事施設がたくさん集まっているため、道に面するファサードが壁ばかりで歩いていてなんの面白みもないのだ。で、先生に今日、「本来なら王宮という終わりがあるはずだった。もし、王宮が完成していたらこの道はモニュメンタルだったと思う」という話をしたら、それはおもしろいといって、「道と言う要素は変化しなくとも周りの要素が変化することで道はモニュメンタルにもそうでないものにもなりうる、道ってのはそういうものだ」「王さまだって、ただの人間であるが、帽子をかぶってマントをはおってきらびやかな椅子に座ることでモニュメンタルな存在になっているのだ」と言われた。この道の話はさっきの千葉さんの話とつながる。道という存在の興味深さは、そこがどこかとどこかをつなぐことによって成り立っているということであろう。道は何かと何かをつなぐ為に生まれる。しかし、道がなければ街は生まれない。それはおいておいて、王さまの比喩の話を聞いているときに、卒論を書いているときの装飾の話をすごく鮮明に思い出した。装飾はただ飾り立てるためにあるのではない、何かを(ほとんどすべては権力を)象徴するために存在するのだという話。中世の戦場において相手の顔ではなく、装飾を見て狙いを定めて銃を撃ったという話。そんな話を思い出した。


今日は本当に散文的でまとまりがない文章になった。でもこういうことがきっと何かを生み出す。まとまっていなくても留めておけば次に何かがひらめくきっかけを作れる。


それから、日本人の笑い方って欧米人と違うなあって今日感じた。日本人が笑っているとなんかわかる。


最後に千葉さんと青木さんの話はぜんぜん情報ない中で記憶を頼りに書いたものだから間違っているかもしれないけれど、僕はそう感じているということで。もし適当なことを書いていたらすみません。