・・・・・・・っということで、ワールドシリーズでMVPを獲得した山本由伸。
これまで多くの日本人選手がメジャーでプレーしてきたけれど、彼ほど「日本人とは何か?」を考えさせる選手はいないのではないでしょうか。
イチローは小さな体で努力を極めた人。
松井は寡黙なパワーの人。
大谷は規格外の才能としてアメリカ的ヒーローの文脈にすっぽり入った。
だが、山本は違う。彼はMLBの「文法」そのものを変えてしまった。
速球派でもなければ派手でもない。
感情を表に出さず、淡々と、静謐にマウンドを支配する。
アメリカ人が山本に見たのは、プレーヤーとしての優秀さよりも、「理解不能な日本人」という存在そのものだったに違いない。
これまでの外国人選手は“個人”として受け入れられてきた。
しかし山本は、“民族”として、ひとつの「文化圏」を背負って登場した初めての日本人なのです。
その文化とは「精神」であることは自明のことです。
彼を通して、アメリカ人は初めて「太平洋の向こうにいる人々」を見つめる機会を得たのです。
戦争映画の中で単純化された日本人像――卑怯な真珠湾攻撃、そして原爆で終わった物語。
それが、静かにボールを投げ続ける一人の青年によって、まるで書き換えられようとしている。
山本を見て、アメリカ人はこう思うのではないでしょうか。
「我々は、この人たちと本当に戦ったのか?」と。
日本人である私たち自身もまた、山本を通して気づかされる。
目立たずとも、自分の「型」を守り、努力を積み上げる人がこの国にはまだたくさんいるんです。
つまり、山本や大谷やイチローは“特別”なのではなく、“日本の中に確かにいる”人たちなのです。
戦争で多くの若者を失った。
もし彼らが生きていれば、きっとその中から何人もの山本や大谷が生まれたでしょう。
戦争の愚かさとは、そうした可能性を自らの手で潰してしまうことなんです。
山本由伸の静かな投球は、まるであの言葉のように響く。
「きみ死にたもうなかれ」。
・・・・・・・
ちょっと飛躍した論法ですが、山本投手を見ながらそんなことを考えてしまいました。
