なぜイスラム教は過激化するのか | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・・っということで、こういう話題は人気がないのは知っていますがネ。(;^_^A

 

なぜイスラム教は過激化するのか?

 

これはぼく独自の分析で、結構いい線をいっていると思っています。

 

まあ、読んでみてください。

 

・・・・・・・

 

イスラム教が過激化するのは、「偶像崇拝を厳格に禁止しているから」です。

 

キリスト教とイスラム教の原点であるユダヤ教は偶像崇拝を禁止しています。(モーゼの十戒)

 

ところが、キリスト教はキリスト本人どころか、神も、マリアも、十字架まで偶像化してしまいます。

 

 

ムハンマドはこの矛盾がキリスト教の弱点と見抜いたのです。

 

なぜキリスト教は偶像崇拝を認めたのか?

 

それは、キリスト教は布教を目的とした宗教だからです。

 

ローマ人がキリスト教を採用したのは、未開人(ゲルマン人やガリア人)を改宗させ、共通の価値観を持たせる必要があったからです。

 

聖書を持ち出しても、未開人には理解できない。

 

だから、偶像が必要だったのです。

 

ムハンマドはまた、キリスト教の布教の危険性に気付いていました。

 

「布教」の後には「支配」が来ることを見抜いていたのです。

 

イスラム教が偶像崇拝を厳格に禁止する理由がわかりますね。

 

・・・・・・・

 

では、何故それが過激化する理由になるのか。

 

イスラム教とユダヤ教以外に、偶像を崇拝しない宗教はありません。

 

逆に積極的に勧めています。

 

仏教に至っては、仏像だらけですよね。

 

人間は「拝む対照」が必要なのです。

 

それが「自然」なのです。

 

ということは、イスラム教は信者に「不自然」を強要していることになります。

 

それがイスラム教徒に「ストレス」を与えているのです。

 

拝みたいのに拝めないストレス。

 

イスラム教は偶像の代わりコーランの文章を拝んでいるのです。

 

高度にデザイン化されたアラビア文字の「カリグラフィー」を思い出すことができるでしょう。

 

 

そして、見事なイスラム寺院の幾何学的なデザイン。

 

 

イスラム教は宗教芸術ではなく、デザインや建築に情熱を注いだのです。

 

 

・・・・・・・

 

イスラム教はキリスト教が採用した禁じ手の偶像崇拝を用いることはできません。

 

すると、「布教」にはコーランを読むか聞くことによるしか手段がありません。

 

イスラム教はキリスト教より「理屈」で理解する力が求められるのです。

 

誰もが理論的に理解できる能力があるわけではありません。

 

勢い、聖職者の言葉を聞くことになります。

 

 

イスラム教に存在する「イマーム(指導者)」の役割が大きいのです。

 

・・・・・・・

 

ここまで書くとお分かりのように、イスラム教の理解は「イマーム次第」なのです。

 

イスラム教のコーランは神の言葉が直接書かれています。

 

(これもムハンマドの着眼なのですが。)

 

ここがイスラム教の強い点であり、弱点でもあるのです。

 

宗教指導者によってさまざまな解釈があるのに、一度解釈されるとそのまま「神の声」になってしまうのです。

 

そして、穏健な解釈をするイマームよりより極端な解釈が力を持ってくるのが宿命なのです。

 

イスラム原理主義者が力を持つようになったのは、過激であるからこそなのです。

 

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以上ですが、まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」のような印象を与えているでしょうか。(^^ゞ

 

でも、これは専門家でさえ見逃している着眼点だと自信を持っています。(^^)/

 

 

 

 

 

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