・・・・・・・っということで、母はもうぼくのことを認識できません。
自分の息子を忘れているんですよ。
そして、言葉を忘れています。
顔の表情も失われ、目の動きだけが母親を理解する唯一の手がかりです。
「わたしゃボケとらせん」と、ついこの間まで主張していたのに。
厳密な意味では、脳の機能は本人であるアイデンティティーを全て失っているのですから、人間という生命体に過ぎません。
でも、目の前にいるのは母以外の誰でもありません。
正真正銘のぼくの母親なのです。
・・・・・・
母親が母親であること。
自分が自分であること。
その判断はどこにあるのでしょうか?
脳がそう認識している間だけです。
考えてもみてください。
眠っているときに自分を自分だと自覚しますか?
自覚しなくとも、自分は自分として生きています。
さらに進んで、起きているときに、常に自分を意識していますか?
TVをぼぉ~と見ているとき、飯を食っているとき。
歩いているとき、電車に乗っているとき。
常に自分を意識していますか?
会話が必要なときだけ、こうやってブログを書いているときだけ、自分を呼び出しているんじゃないですか?
それ以外は脳は休め状態で、生物学的な自分が自分を支配しているんじゃないですか?
すると、自分とは、脳がそう意識しているときだけが自分ということに気づくはずです。
ですから、人生の大半は自分として生きていないのです。
言い換えれば、必要なときに自分を呼び出しているときだけが自分なのです。
それ以外は、生命を持った個体として(無意識に)生きているのです。
今の母は、まさにそういう状態で、ぼくも次第に脳が認識するところの自分ではなくなるのです。
ならば、生きている間はできるだけ、自分である時間を大切にしたいと思わざるを得ないのです。