・・・・・・・っということで、明治以降は義務教育となって、すべての日本国民は教育を受けることになりました。
実に喜ばしいことです。
国民すべてとなると、教育は一人の教師対多数の生徒という形式を採らざるを得ません。
ぼくは、アメリカでパイロットのインストラクターの資格を取ったことがありますが、教科書の最初のページにこのようなイラストレーションが載っていました。
要するに、教育というものは一方的に知識を注ぎ込めばいいってもんじゃないよという警告です。
分かっちゃいるけど、1対多数の教育では、これは難しいのです。
個人差に応じた決め細かな教育が理想ですが、仮想の平均レベルの生徒を想定して授業を進めざるを得ないのです。
・・・・・・・
かといって、詰め込み式の教育が悪いわけではありません。
寺子屋で教えていたのは「読み書きソロバン」です。
ぼくは、これが教育の基本であってこれは、一方的に注ぎ込んでも良い科目だと思います。
しかし、日本の教育は一方通行の教育が定着してしまって、生徒が自主的に考える能力を奪ってしまっているように思えます。
本来は、学んだ知識を基に、自分で考える能力を身に付けさせることでしょう?
教師となったからには、一方通行の教え方ではダメだと知っているはずです。
なのに出来ないのは、たぶん、日本の教育現場に問題があるのでしょう。
でも、ぼくは言いたい。
(ぼくの経験から)そういう能力を引き出すスキルが教師側に足りないと。
何故なら、教師たち自身が自分で考える教育を受けていないからだと思うからです。
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おっと、また脇道に逸れてしまいました。(^^ゞ
ぼくが言いたいのは、寺子屋あるいは師弟制を真剣に見直すべきだということです。
つづく。