薪は生であり、灰は死であり、そこに連続性(或いは可逆性)はないと。
彼はそんなことを座禅(瞑想)することによって悟ったのですね。
彼の書く文章は見事です。
分かりにくいことを分かりやすく伝える名手といえるでしょう。
仏陀なんか何言っているのかサッパリ分かんない。
それでも、ぼくのような凡人には分かりにくい。
さて、薪と灰は別物だとして、生と死も同じく別物だと理解したとしましょう。
じゃあ、薪が灰になる「燃える」という過程はどう説明するのでしょう?と道元さんに聞いてみたいのです。
ぼくには燃えるという過程こそ「生」じゃないかと思うんです。
薪にとって時間は止まっています。
灰だって止まっていますよね。
でも、火には時間があります。
燃える間激しく変化するじゃないですか。
変化を説明するには時間の概念がどうしても必要になります。
あくまでぼくにとってですが、ぼくが生まれる前は時間が止まっていました。
たぶん死後も止まることでしょう。
生まれたときに時間が動きだし、生きている間は確実に時間が過ぎていきます。
逆にいえば、時間があるからこそ生きていると言えるでしょう。
じゃあ、時間とは何か?
時間とは過去から未来に向かって一直線に進むとイメージしがちですが、そんなものは最初っからオカシイ。
人間が勝手に作り出した言葉にすぎないと言ったら、ぼくの頭は狂っているのでしょうか。
生きていることも含め、この世の中の全ては「変化」します。
しかし、変化するのは時間によってではありません。
変化するのを計測するため、便宜的に考えたのが時間なのです。
まさに始めに変化ありきなのです。
さっきから「生」だと何度も言っていますが、生って何ですか?
過去はもうありません。
未来はまだありません。
あるのは今だけです。
生とはまさに今にしか存在しません。
じゃあ、今を時間で計ってみてください。
ゼロでしょ?
ゼロ即ち「無」なのです。
すると「生=無」という式が成り立ちませんか?
すると、勘のいい人は死って無でしょ。
ならば、「生=死」じゃないの?・・・となるのです。
ぼくのブログの読者なら覚えてくれているでしょうが、「今がいちばん年を取っていて、今がいちばん若い」と書きました。
すると、「老=若」という式が成り立ちますね。
世の中はこういう矛盾が平気で存在するのです。
なぜなら、この世の全ては言葉にすぎないのです。
言葉は人間が作り出したのですから、いい加減なのです。
・・・・オット、話が拡散してしまいましたね。
道元さん、座禅を組ながらこういうことを考えるのって、アリでしょうか?
(;^_^A
このシリーズおわり。