ぼくの道元(その4) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、道元さんは薪と灰は連続しておらず別物だと言いました。(前後際断)

薪は生であり、灰は死であり、そこに連続性(或いは可逆性)はないと。

彼はそんなことを座禅(瞑想)することによって悟ったのですね。

彼の書く文章は見事です。

分かりにくいことを分かりやすく伝える名手といえるでしょう。

仏陀なんか何言っているのかサッパリ分かんない。

それでも、ぼくのような凡人には分かりにくい。

さて、薪と灰は別物だとして、生と死も同じく別物だと理解したとしましょう。

じゃあ、薪が灰になる「燃える」という過程はどう説明するのでしょう?と道元さんに聞いてみたいのです。

ぼくには燃えるという過程こそ「生」じゃないかと思うんです。

薪にとって時間は止まっています。

灰だって止まっていますよね。

でも、火には時間があります。

燃える間激しく変化するじゃないですか。

変化を説明するには時間の概念がどうしても必要になります。

あくまでぼくにとってですが、ぼくが生まれる前は時間が止まっていました。

たぶん死後も止まることでしょう。

生まれたときに時間が動きだし、生きている間は確実に時間が過ぎていきます。

逆にいえば、時間があるからこそ生きていると言えるでしょう。

じゃあ、時間とは何か?

時間とは過去から未来に向かって一直線に進むとイメージしがちですが、そんなものは最初っからオカシイ。

人間が勝手に作り出した言葉にすぎないと言ったら、ぼくの頭は狂っているのでしょうか。

生きていることも含め、この世の中の全ては「変化」します。

しかし、変化するのは時間によってではありません。

変化するのを計測するため、便宜的に考えたのが時間なのです。

まさに始めに変化ありきなのです。

さっきから「生」だと何度も言っていますが、生って何ですか?

過去はもうありません。

未来はまだありません。

あるのは今だけです。

生とはまさに今にしか存在しません。

じゃあ、今を時間で計ってみてください。

ゼロでしょ?

ゼロ即ち「無」なのです。

すると「生=無」という式が成り立ちませんか?

すると、勘のいい人は死って無でしょ。

ならば、「生=死」じゃないの?・・・となるのです。

ぼくのブログの読者なら覚えてくれているでしょうが、「今がいちばん年を取っていて、今がいちばん若い」と書きました。

すると、「老=若」という式が成り立ちますね。

世の中はこういう矛盾が平気で存在するのです。

なぜなら、この世の全ては言葉にすぎないのです。

言葉は人間が作り出したのですから、いい加減なのです。

・・・・オット、話が拡散してしまいましたね。

道元さん、座禅を組ながらこういうことを考えるのって、アリでしょうか?

(;^_^A


このシリーズおわり。