・・・・・・・っということで、山を登りながら考えた。
人生の目的はなんだろう。
人生に意味があるのだろうか・・・と。
自分が生きる目的をを見つけたら、取捨選択がなされるはずだ。
だって、目的に合致しないものには構っていられないからだ。
合うものだけ選択し、合わなければ合うように変革するだろう。
それが人生の目的を持った人の生き方になるだろうか。
そういう生き方が、人生の意味だろうか。
一神教の西洋はそういう生き方に価値を見出す。
目的に向かって生きることこそ、価値のある人生を送るのだと。
人生の目的も見つけられずに、なにをグズグズしているのだと。
東洋の人間もそう考えるのが自然だろうか。
明治の文明開化を経て、日本人は西洋の技術や思想を旺盛に取り入れた。
いまの日本でもそれが続いている。
明治維新後、敗戦を経て、なおさらそういう考え方に染まっていったのだ。
日本を始め、東洋の人間はそんな問いを発していただろうか。
そんな問いを自らに発するのは、西洋の一神教をベースにする思想に知らず知らずのうちに洗脳されたのではないか。
多神教では異なる。
ヒンドゥー教にあるのは、強い神、弱い神、賢い神、だらしない神はあっても、全ての神の上にオールマイティーな神は存在しない。
仏教では神はいるのかいないのか、問題にさえしていない。
儒教に至れば、神など語っていないではないか。
そういう中にあっては、人生の目的、生きる意味など問題にならないのではないか。
では何が問題になるのか。
それは、人生を振り返って一点の恥じもない生き方、後悔の無い生き方を問題にするのであろう。
江戸時代の日本人は、武士たちばかりでなく市民たちも自らを律する生き方をしていた。
西洋と東洋。
ここに大きな違いがあることに気付く。
同じ価値ある人生を送るのに、片や目的を持って、片や自らを律することによって達成しようとしているのである。
いまの若い人に人生の目的を聞いても、明確に答えられる人は稀だろう。
それでいいのである。
・・・・・・・・山を登りながら考えた。