・・・・・・・っということで、気付かぬうちに季節は巡って冬となったようだ。
11月も半ばになろうとしているのに、このごろの陽気はどうしたものだろう。
日中は、長袖シャツ一枚でも袖まくりするくらい暖かいのである。
ぼくが小学生の頃、誕生日(10月23日)にはジャンパーを着ていたことを覚えている。
誰かさんがなんと言おうとも、地球温暖化は着実に進んでいるのだ。
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【冬ごもり】という言葉がある。
冬になると、人々はやることが無くなる。
要するにヒマになるので、一日中家に篭って長い冬をやり過ごしていたのである。
農作業しようにも、山で木を伐採しようにも、海に漁に出ようとも、冬は寒くて活動できないのである。
仕方が無いから、家に居るしかない。
家全体を暖めることなんか出来ないので、囲炉裏なり炬燵なり、家で唯一暖かいところに家族全員が集まらざるを得ない。
集まれば会話は避けて通れない。
雪が積もれば、隣近所との交流も途切れるだろう。
長い夜を人々はどうやって過ごしていたのだろう。
ボソボソと他愛もない会話がつづいただろう。
その間に笑い声も聞こえるだろう。
長い沈黙も続くだろう。
そんなことを想像してみる。
日本の全国各地、それが冬ごもりの風景だったのだ。
何世紀も何世紀も、そのリズムは体の中に深く刻み込まれたことだろう。
そんな冬のリズムが壊れたのはつい最近のことだ。
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冬の寒さでも活動できるようになったときから、「冬ごもり」という言葉自体が消失した。
それは冬という制約からの開放だったのだろうか。
それとも、生産性という新たな呪縛に取り付かれてしまったのだろうか。
少なくとも言えるのは、冬のあいだ体を寄せ合っていた家族の濃密な時間が失われたことである。
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こうやって「冬ごもり」という言葉をじっくり考える。
それが出来るのも、ぼくがヒマになったからである。
ぼく自身、生産性という呪縛から解き放たれて早6年、季節の移り変わりに注意が向くようになった。
日本人が失った生活のリズム。
そんな役に立たないことを考えている。
「冬ごもり」の喪失と新たに生じた「引きこもり」問題。
二つの間に関連性があることに考えが至る。
ひょっとして、「こもる」という行為は人間には必要なのではないかと。