・・・・・・・っということで、一般的には心と体は別物のように考えられているけれど、ぼくは心と体はイコールで、切っても切り離されないものだと以前書きました。
自分とは即ち、この身体ワンユニットで構成されていると。
こういう考え方をすると、「脳死」は死ではなくなります。
どうしてかというと、心は脳だけではないと考えるからです。
ですから、ぼくの臓器を他人に提供する気はさらさらありません。
だって、身体は機能しているのですから、自分というユニットはまだ死んではいないのです。
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脳死=人間の死との考え方は、人間をパソコンのように、体と心を別物とする考えです。
パーツは機能していて、ソフトウェアが機能していないのだから、パーツを使ってどこが悪いのかという考え方ですね。
でも、心とは何かを人間はまだ解明していないのに、こういう考え方は乱暴じゃないでしょうか。
NHKでやっていた「人体」という番組では、脳を経由せずに筋肉と臓器が勝手に交信していると言っていたじゃないですか。
筋肉や臓器たちは心そのものとは言わないまでも、心の一端を担っているんでしょう?
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医学の進歩で臓器移植と同じように脳移植が可能になる日も来るんじゃないでしょうか。
すると、身体が欠損したり動かなくなった人の脳を、脳死状態の健康な身体に移植することだって考えられます。
すると、新しい身体を得た人は自分だと認識するのでしょうか?
さらに、老化した人の脳を若い人に移植すれば、若返りが出来るのでしょうか?
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もし、心がソフトウェアだとしたら、そのデータをコンピュータにコピーすることが出来るはずです。
すると、自分は永遠の存在として、手に入れた電子脳で生き続けることになるのでしょうか。
脳死を主張する人はそう考えなきゃならないでしょう。
では、脳のどの部分が心なのでしょう?
脳のどの部分が自分なのでしょうか?
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話はまだ続きます。
全身麻痺で脳だけ機能している人も存在します。
言語機能も含め身体が完全に麻痺していて、かろうじて目の動きだけで会話できるとします。
その人は自分という認識とともに心も確実に持っている訳ですから、一個の個人として尊重されなくてはなりません。
すると、脳死=人間の死ということは正しいとしなければなりません。
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自分だと認識する心とは何なのでしょうね?
心はどこから来たんでしょうね?