・・・・・・・っということで、映画を見た後に小説を読みました。
スコセッシ監督が原作にとても忠実だったことが分かります。
これだけ忠実に描いてくれるとは、泉下の遠藤も喜んでいることでしょう。
もちろん、差異はあちこち見受けられます。
大きなところで、映画は英語が基本でしたが、原作はポルトガル語です。
パードレとか、コンヒサンとか、パライソなんかはポルトガル語なんですね。
英語を日本語に捻じ曲げるにも程度が酷いなと思っていました。(^^ゞ
さらに、司祭たちの心の動きが映画では映像で見せるところを、小説では言葉で解説しています。
その分、小説のほうが深く理解できます。
どちらが優れた表現かという意味ではありませんよ。
たとえば、最後に司祭が踏み絵を踏むクライマックスの場面。
小説では踏み絵のキリスト像が司祭に向かって、「私を踏みなさい」と命じたとあります。
それを後から聞いた奉行が、棄教した自分を正当化する言い訳だと司祭をなじるのです。
これは映画では描かれていません。
それと、映画で語られていたのにぼくが見落とした重要な台詞を思い出させてくれました。
それは、リーアム・ニーソン演じる上司の立場にある司祭が、日本は沼地のようで、我々が布教して種を蒔いて芽が出たと思ってもその根は腐ってしまう。
日本人が信じるキリスト教は、我々が布教するキリスト教とは似て非なるものに変化している。
だから、我々がどんなに努力しても無駄なのだと半ば諦めた態度でつぶやくのです。
それに対して、彼の部下である宣教師は、「信仰をかたくなに守って殉教していったキリシタンたちはいったい何を信じていたのだ。彼らの信仰は間違っていないはずだ。」と反論するのです。
いい場面ですね。
そこで、リーアム・ニーソンは言うのです。
先駆者で成功者として知られるフランシスコ・ザビエルは主のことを「大日」と訳した。
それは日本人にとって、「太陽」のことであり、神道の「天照大神」と同じだと日本人は解釈したのだというのです。
スッゲェ~~~でしょ?
来週から訪問する長崎の隠れキリシタンの史跡を巡るとき、彼らの信仰の本質を知る上でこれは大きなヒントになるとぼくは思うのです。
実際にこの足で現場を辿って、ぼくがどういう印象を持ち帰るか、とても楽しみです。(^^♪
分かっていただけますかねこの面白さ?^m^
さらに、遠藤がなぜ神は「沈黙」を守ったかに対しても、ひとつの回答を出していることも面白い。
それは、死にゆく信徒が、それを見守る司祭が、なぜこんな場面でも神は沈黙を守るかという、非難にも似た疑問に対する答えです。
その答えというのは、「神も同時に苦しんでいた」というものです。
遠藤のこの解釈に、彼ほどキリスト教に対して真摯な姿勢を示した信者はいるのかと、いまさらながらに感心せざるを得ませんでした。