・・・・・・・っということで、映画【沈黙】を題材に、キリスト教について集中的に考えてみるシリーズです。(^^ゞ
映画の中で、宣教師二人が鎖国中の日本に潜入します。
キリスト教が禁止され、宣教師や信者たちが国外追放になってから二十年以上経っています。
隠れキリシタンたちはパードレ(宣教師)の到着を待ちわびていたのです。
彼らは手を合わせて宣教師たちを拝みます。
村人たちは争うようにして懺悔します。
そして、新しく生まれた子供たちに洗礼を授けてもらいます。
それが出来るのは本物のパードレにしか出来ないのだから当然でしょう。
物語が進むにつれ、宣教師たちは日本人は本当にキリスト教を理解しているのかと疑問を持ち始めます。
宣教師が不在の間、キリスト教本来の姿が歪められてしまったのではないかと。
彼らが拝んでいるのは宣教師そのものであって、神ではないのではないかと。
(実際は20年どころか、江戸幕府が続いた260年間、信仰を守り続けていたわけで、その間に本当のキリスト教徒は大きくかけ離れたものに変容していたのはご存知のとおりです。)
・・・・・・・
これは実に面白い展開です。
本来なら神を崇拝するべきであって、宣教師そのものを拝むのは間違いなのです。
あくまで、宣教師は神の道への案内人なのですから。
しかし、これはおかしなことではないのです。
仏教を考えてみれば実に分かりやすい。
数ある宗教の中で、一番理解するのが難しいのが仏教です。
なぜなら、仏教は殆ど「哲学」だからです。
仏教は悟りを求めます。
一般人が悟りを開くなんて簡単に出来ません。
悟りを開き仏の道を理解するためには、厳しい修行が必要です。
仏教の信者全員に修行を強制できませんよね。
そこで登場するのが僧侶です。
僧侶は、長い年月を経て修行を積みます。
いわば、一般人が出来ないことを僧侶が身代わりになって修行するのです。
ですから、一般人は仏教の難しいことなんか分からなくても、僧侶を拝めばいいのです。
日本には仏教のほうが先に入っているから、キリスト教の宣教師を拝むことに抵抗を感じないのです。
だから、宣教師は戸惑ってしまったのです。
・・・・・・・
では、こういう現象は日本独特のものなのでしょうか?
ちょっと考えれば、キリスト教でも起きていることに気付きます。
本来はデウス(神ですね)を崇めるべきなのに、キリストを拝んでいる。
一神教のはずなのに、これは不味い。
だから、キリストは神の子ということにして、さらに三位一体だと苦しい理屈を加えた。
しかし、キリスト教信者は母であるマリア様も拝み始める。
マリア様は人間であって、神様じゃないぞ。
さらに、十二使徒まで拝む始末。
ここまで来ると、もう誰にも止められない。
これは、キリスト教が抱える大きなジレンマです。
・・・・・・・
その辺のジレンマから一番自由なのがイスラム教です。
彼らが相対するのは神(アッラー)だけです。
最高の預言者であるムハンマドさえ拝むことを許していない。
イスラム教がキリスト教より優れているとは言いませんが、後発の宗教であるメリットを最大限に生かした良く出来た宗教であることには疑問の余地がないでしょう? ^m^