峠の向こう側 | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、今回の木曽路の旅を始めるにあたって、一気に中央自動車道を下って木曽路の最南端の中津川宿から北上して塩尻宿に北上するコースか、あるいはその逆の南下のコースにするかどちらにしようか迷いました。


結局は塩尻から入って南下するコースを選んだのですが、思いがけず塩尻の縄文時代の平出遺跡に立ち寄ることになりました。


平出遺跡は、まさしく木曽路の入り口に位置しています。


縄文、弥生、古墳時代と連続して発掘されています。


ここで出会った学芸委員によると、この場所が開けたのは水が確保されたからだそうです。


同じ縄文人ながら、アイヌが狩猟採集民族だったことと違い、こちらは農耕民族でした。


単に、水が出るからという理由だけで、この地に何代にも渡って人々が住み続けたという説明にはなりません。


だって、他にもそういう条件の土地は山ほどあるでしょう。


ぼくは、塩尻という土地が繁栄したのは、単に農耕に適しているだけだとは思えないのです。


何気なしに、「ほら、あそこが木曽路の入り口ですよ」と彼が指差したのです。


そして、「ほら、あそこが一里塚」。


この地は、太古の昔から、木曽路の入り口(出口)であったから栄えたのだとぼくはピンと来ました。


縄文時代の人々の生活と、江戸時代の中山道(木曽路)の役割を比べるのは変だと思われるでしょう。


しかし、人間なんてそんなに進化するものではありません。


いまでこそ、木曽路を江戸時代の街道(=通路)と認識していますが、縄文時代でも盛んに人々が往来していたのではないかとぼくは想像してしまうのです。


中山道の一部である木曾路は確かに江戸と京都を結ぶ重要な街道の一つでした。


江戸時代前は武田や織田の軍勢が行き来したことでしょう。


関が原の合戦に間に合うべく徳川秀忠軍が急いだのもこの木曽街道でしょう。


それより以前から、ここは人ばかりでなく物品も往来していたことでしょう。


しかし、この木曾路は軍事や貿易目的だけに拓かれた街道ではないのだとぼくは思うのです。


実際に、そこに立って目を閉じると縄文時代に塩尻に住んでいた青年が目に浮かびます。


家族は代々そこで農業を営んでいました。


彼はいつも谷のことが気になって仕方ありません。


あの谷を辿っていったらどこへ着くのだろう?


ある日、彼は親の目を盗んで谷の入り口から山に分け入ります。


すると、目の前に高い峠が聳え立っています。


いまの「鳥居峠」です。


あの峠を越えたら向こうには何があるのだろう。


彼の代では峠を越さなかったかもしれません。


でも、彼は自分の子供や村人に、峠の話をします。


すると、その中から峠を越えて向こう側を見たいという若者が必ず現れるものです。


そして、峠を越します。


峠を越すとそこから南西の方向に向かって流れる川(木曽川)を見つけます。


そこでこの川の流れる先はどこなのだろうと興味がわきます。


そして何代も世代が過ぎて、峠の向こうに住みつく人も出てきます。


狭い場所に農地を耕すでしょう。


そして、豊富な木を伐採して炭を作ったりする人も出てくるでしょう。


同じことが南端の中津川でも起きます。


中津川に住んでいた村人の中から上流を目指す若者が出てくるのです。


「あの峠の向こうには何がるのだろう?」。


最初に超えたのが馬籠峠です。


そして上から来た人と何時か何処かで出会います。


縄文時代にそれは完結したと思います。


お互いの交流が始まり、粗末なものの交換が始まり、こうして交易が始まるのです。


その交易で成功し裕福な人が人が出てきます。


その人たちが、塩尻に古墳をいくつも作ったのです。


北の塩尻に古墳があるのですから、南の中津川にも絶対古墳群があるはずだとぼくは確信しました。


そして、ネットで調べると・・・・・


アタリマエですよね。


縄文人はじっと同じ場所で農耕を続けるほど好奇心が弱い人たちではなかったのです。




・・・・・・・以上、木曾路シリーズを終わります。