・・・・・・っということで、先日は武田勝頼が最後を迎えた天目山に行ってきましたが、今日は彼が直前まで居城にしていたた新府城を訪問しました。
国道脇に駐車場があるのを見逃してしまい、大手門の前の路肩に駐車。
大手門から正規の道順を辿ります。
っというのも、真っ直ぐ登る石段もあるのです。
途中、馬出しとか二の丸とかの説明看板が随所に立っていますが、草むらがあるばかり。
登りきると、本丸跡があります。
想像していたのと違い、とても大きな規模の城だったことが伺えます。
城山自体が大きく、本格的な城構えだったようです。
地図でも分かるとおり、三方が切り立った崖で、難攻不落であることは一目瞭然です。
ぼくは砦くらいのイメージだったので、興奮しました。
(グラナダのアルハンブラは同じような地形なんですよ。↓)
城に適していることは、ここを占領したあと、徳川が本部を置いたことでも分かります。
下は韮崎市が建てた説明石碑。
この地は武田発祥の地だったと誇らしげに書いてあります。
真田丸で観光開発したかったようですが、色褪せた幟がチトわびしい。
跡地はとても広いです。
築城を命じられたのはあの草刈正雄・・・じゃなかった真田昌幸で(異論もありますが)、短期間で見事な城を完成させたようです。
甲斐の人達にとって、武田家は神に昇華しているようですね。
↓これが直線で登れる階段。
↑東方面のながめ。
八ヶ岳の山頂は雲に覆われています。
さて、何故こんな立派な城を2ヶ月使っただけで自ら火を放って放棄したか?
ここで防戦したなら、あんなに惨めな最後は迎えずに済んだはずです。
所謂、城を枕に討ち死にですね。
実際、息子の信勝はそう進言したそうです。
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実際にこの城跡に立って想いに耽ってみました。
信長・徳川連合軍はこの城を落とすとしたら相当手こずったことは間違いありません。
勝頼も迷ったはずです。
ただ確実なことは、ここで戦えば、間違いなく一族は死ぬということです。
彼は生に固執したのです。
部下の小山田の進言を受け入れて、より山奥の岩殿城に移って、生き延びるチャンスにかけたのです。
結局、裏切られてしまったのですが、これは信長・徳川側の策略に間違いないでしょう。
勝頼とはそういう男だったのです。
才能がないとか、優柔不断だったとか、お人よしだったとか非難されるかも知れませんが、そういう人間、ぼくは好きですよ。
戦乱の世にあって、家族を必死で守ろうとした人間が浮かび上がって来るからです。
崖の上から東南の方向が甲府です。
その先が岩殿城に至るために越す笹子峠です。
(そこで、小山田に通せんぼを喰らって天目山に引き返したのですが。)
彼も落ち延びる前、ここに立って、その方角を眺めたことでしょう。
その時の彼はどんな想いで眺めたのでしょう。
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史跡って、実際に行ってみなきゃ分からんものです。