・・・・・・っということで、歴史を勉強していると、歴史って【必然】であって、【偶然】ではないなとつくづく感じるようになります。
確かに、偶然によって歴史が大きく変わったように見える事象がいくつもあります。
でも、大きな流れの中で見ていくと、それは【必然】であったことが分かってきます。
理由の後付とは異なります。
いま勉強しているイスラム教でも、キリスト教圏のヨーロッパになぜ大きく水を空けられてしまったのか、必然性の中からその答えが出てくるはずです。
元来、歴史とは必然という立場で考えないと成り立たない学問でしょう。
これを偶然のものとして扱ってしまった途端、思考は先に進みません。
宗教の効能(?)はよく理解しているつもりですが、副作用(?)は理解の出来ない事象を偶然に分類してしまうことでしょう。
即ち、神の領域に任せてしまうことです。
イスラム教にしても、キリスト教にしても、宗教的な立場があまりに強過ぎると、思考停止に陥ってしまう危険性が高いのです。
「聖俗」は分かれるべきなのです。
餅は餅屋に任せておけばいいのです。
イスラム教が抱えるジレンマは、その聖俗が上手く切り離せなかったのが原因です。
キリスト教はそれが出来た。
こういうことは歴史を学んでいると、分かってくるものなのです。
ターニングポイントは1517年であることも。
その年マルティン・ルターが宗教改革の声を上げたのです。
同じ年、イスラム帝国であるオスマントルコがマムルーク朝を征服し、その地位を確固なものとしたのです。
片や、啓蒙思想を経て政教分離の道に進んだキリスト教国。
片や、政教分離の道からますます遠くなってしまったイスラム教国。
現代のイスラム教諸国が抱える問題を生んだ歴史の必然性をそこに感じるのです。