・・・・・・っということで、たぶんぼくと同じ感想を持っている人は多いと思う。
度重なる謝罪の映像を見て変だなぁ~~って感じる人。
バドミントン選手でしょ、ショーン誰だっけ?ベッキーだっけ?スマップだっけ?どこかの不倫議員だっけ?
個々のケースで良い悪いの感想は特にありません。
でも、最近になって多過ぎると思いませんか。
ここから頭をよぎるのは:
「過剰なバッシング」
「一発レッドカード」
「極端な潔癖症」
「集団リンチ」
・・・という言葉です。
即ち、日本が【不寛容な社会】になってきたのではないかということです。
例によって、自分なりに理解しようと努めた結果、【村八分】というとうの昔に朽ち果てたと思
われる言葉が浮かび上がってきました。
結局のところ日本は村八分の原則が未だに命脈を保っているのではないか。
命脈を保っているどころか、実はそれが日本の本流ではないかと疑っているのです。
最近になって、それが露骨に表れたのはやはり、ネット社会の影響ではないかと思うのです。
以前も書いたとおり、日本の農業は自然環境の厳しい中で営まれており、村という集団社会で乗り切る必要性がありました。
村という単位を守るためには、結束を破る者は排除しなければならないシステムが確立されたのです。
村の中では、個よりも集団が優先されました。
その中で生まれた防衛システムが、村八分だと思っていいでしょう。
昔の村は地理的制約から、それは小さな単位にならざるを得なかった。
生活の主体が都市に移った結果、村社会は解体されていった。
ところが、ネットが出現して以来、地理的な制約から開放されて、【村】という単位で成り立つ素地が再びできたのです。
村意識は消滅したどころか、日本人の気質に深く染み込んでいたのです。
なんのことはない日本全体が一つの【日本村】になったに過ぎないのです。
日本は【国家】どころか【村】だったのです。
そう解釈すると、最近の謝罪の頻発が良く理解できませんか?
・・・・・・
実は、これはとても良くない事なのです。
村八分よりももっと悪い事態なのです。
何故なら、村のまとめ人がいないのです。
日本にはリーダーは存在せず、居るのは調整役だとよく言われています。
昔の村は小さい単位だったので、各村には必ず調整役がいました。
その調整役の裁定で、異質分子が村に現れた時の処分が決められました。
ところが、ネットで結ばれた日本村にはその調整役が居ないのです。
即ち、言い放題、し放題の状態なのです。
まるで集団リンチの状態になっても、それを止める役目の人間がいないのです。
もし権威の無い者が止めようとしようものなら、その人間がリンチに遭ってしまうのです。
これは、絶対に良くない社会です。
歯止めがかからない社会ほど恐ろしいものはありません。
日本人は別の形でそれを嫌というほど経験したじゃないですか。
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出る杭は打たれる社会でいいのです。
打たれて打たれて、それでも伸びる杭がいい杭なのです。
ダメな社会は出る杭は引っこ抜かれる社会なのです。
出る杭がいなくなった社会ほど、サイテーの社会はないんじゃないですか?