ビザンツ帝国(その3) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・っということで、退屈なテーマも今回で終わりにします。^m^


ビザンツ帝国が長期にわたって続いたことを考えた次は、なんで滅びたかに移ります。

滅亡した日付は1453年5月24日と明確です。

滅ぼしたのはオスマン帝国のスルタン、メフメト2世です。

その日、最後の皇帝コンスタンティノス11世は城壁でオスマントルコ軍に突進して壮絶な最期を遂げました。

結局、死体は見つかりませんでした。

たぶんばらばらになって見分けがつかなくなったのでしょう。

皇帝を示す刺繍の入った靴下だけが見つかったそうです。(この挿話はぼくの記憶違いかも知れません。)

ローマ帝国の最後に相応しい、ロマンに溢れた幕切れでしたねぇ~~

詳しくは塩野七生女史の「コンスタンチノープルの陥落」をお読みください。(^^ゞ

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さて、ビザンツ帝国滅亡の理由でしたね。

それは、「民族国家」の台頭だと思います。

前回書いたとおり、ビザンツ帝国は究極の多民族国家でした。

しかし、各民族が自分たちのアイデンテティーに目覚めた時、多民族国家の分裂を止めるのは至難の業です。

現代においても、バルカン諸国を見るまでもなく、カタルーニャ、スコットランド、クリミアの独立運動を見れば、その厄介さは理解できるでしょう。

帝国の後半には、東方のもっとも豊かな地域をアラブ人に、バルカン半島にスラブ人が永住し、ブルガリア国家を形成させてしまいました。

実際の現象を挙げれば、力をつけたブルガリアをけん制するために、北部のマジャール人(ハンガリー人)を利用したなど、ビザンツ式外交駆け引きの上手さが逆効果になったり、キリスト単性説の争いの宗教的不手際によりビザンツ軍の質の低下や各属州の行政の貧困を招いたことが、アラブの侵入を許したなどが説明に使われます。

ある意味、滅亡の原因はローマ帝国と同じかも知れません。

帝国の安全を確保するために、周囲の外敵を排除しながら広範囲の領土を獲得するのは理にかなっています。

ところが、広範囲であるからこそ、維持が難しくなってくるのです。

大英帝国も同じ理由で消滅したでしょう?

そんな数ある帝国の中で、1100年も続いたのは如何にビザンツ帝国が優等生だったか分かるというものです。

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以上ですが、最後に歴史の皮肉について触れておきます。

最初に書いたとおり、ビザンツ帝国の息の根を直接止めたのはオスマントルコですが、それ以前に帝国を決定的に弱体化させたのは同じキリスト教徒だったのです。

1204年、第四次十字軍の攻撃目的はイェルサレムではなく、このコンスタンチノープルだったのです。

純粋に商業的な欲によって、ヴェネツィア主導の元、この帝都は十字軍によって暴行・虐殺・掠奪されたのでした。

彼らは短い間ラテン王国を設立しましたが再度奪い返され、ビザンツ帝国が再興されたもののその国力の低下は無残なものでした。

さらに、通商権をヴェネツィアとジェノヴァに与えたため、貿易による利益が彼らに吸い取られてしまいました。

実は、このあと成立するオスマントルコも、同じようにヨーロッパ側の通商権要求により弱体化させられてしまいました。

なんとも皮肉なことです。

キリスト教帝国の息の根を止めたのは、禿げタカのように群がってきた、同じキリスト教徒だったのです。

こういう目でヨーロッパというものを見たとき、ぼくらアジアの国々はよほど注意してかからなければならないと歴史は教えるのです。

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これでこのシリーズは終わりますが、次はこのビザンチン帝国を滅ぼしたオスマントルコの話を書きたいと思います。

ようやく、これでイスラム教の話が進められます。(^^ゞ