・・・・・・っということで、人間がコントロールできない力(神が司るもの)ってナンだろう?
1.自然災害
2.人間(蛮族)による災害
3.死
の三つではなかろうか。
これら人知の及ばない不条理な力に対して宗教が生まれたと前回分析した。
1.3.については詳しく述べる必要がないだろうから、いったん後回しにする。
2.の人災については日本人は実感として理解しにくいはずだ。
ところが、ヨーロッパをはじめ陸続きの国の民に於いてはこの脅威はハンパではない。
ぼくがヨーロッパを旅行していちばん気付いたことは他民族(蛮族)が侵入してくることへの恐怖である。
ローマ人にとってのゲルマン民族。
ゲルマン民族にとってのフン族などのモンゴル系の騎馬民族。
イングランド、フランス、あるいは地中海地方の住民にとっての北欧(ノルマン人)民族。
ヨーロッパに於いては民族の大移動という形で、往々に国境が変更され、国家が消滅した。
各都市には必ず城壁の跡が残っていることからもこの恐怖は理解できるだろう。
このことは宗教の性質を決定付ける最大の要素になっている。
キリスト教、ユダヤ教はこういった人災から守って欲しいと神に願うのがベースである。
特にユダヤ教はこの点において特徴付けられる。
彼らは出エジプト記に見られるように、災害の元は常に人間を想定している。
彼らが長いあいだ国を持たずに、世界中を放浪する宿命(ディアスポラ)を背負っていたがために、世界が終焉する時は神に祝福されたユダヤ人だけが生き残るという選民思想を持つに至った。
彼らにとっての災害は人災が第一であって、自然災害を想定していない。(ナチスの迫害は典型例)
これはキリスト教にもいえることであって、災害は常に人間(異教徒)によってもたらされる。
イスラム教も同じである。
基本的に遊牧民族である彼らは、家畜の牧草を求めて移動する。
確かに自然の要素もあるだろうが、遊牧していく先の民族との争いこそが最大の問題である。
商業においてはなおさらである。
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さて、日本はどうであろうか。
災害の本質は自然災害であって、人災ではない。
なぜなら、日本ほど自然災害の多い国はないだろう。
地震、津波、火災、洪水、干ばつ、山崩れなどなど。
日本は自然災害のデパートといって差し支えないほど。
しかも、主力である稲作は年に一度しか収穫のチャンスがない。
それが外れれば、即飢え死になのである。
日本の歴史を見ると飢饉と大飢饉の繰り返しであることが分かる。
日本人にとって、もっぱら恐怖の対象は自然災害なのである。
今年こそ天気に恵まれ、お米がたくさん収穫できますようにと神に願うのが宗教の原点なのである。
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そんな日本に、キリスト教、ユダヤ教、ましてや遊牧民の宗教であるイスラム教が根付くとは思われない。
なんとなく、日本人は仏教や神道のほうが受け入れやすい。
自らの神に他民族をやっつけてくれとお願いすることはなく、どうかお天道様のご機嫌が損なわれないようにと願うのである。
只ただ念仏を唱えながらお願いするのである。
そこには、教典などあまり必要性を感じない。
神道に教典がないのはそのためだろう。(但し、日本書紀とか古事記という民話風なものは残っているが。)
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こう書くと、いや日本にキリスト教が伝来し、弾圧される前はその効果を上げていたではないかと反論されるかも知れない。
しかし、日本のキリシタンたちは聖書を学ぶことより、単に念仏を唱えて拝むことしか興味がなかったのではないだろうか。
聖書に対する姿勢は日本と欧米の信者に大きな差があるはずである。
ただ熱心に祈ることが出来さえすれば、願う対象がイエスキリストでもお釈迦様でも構わなかったのが現実ではなかったのではないか。
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以上、宗教の科学という大げさなタイトルのわりには大したことを書いていないけれど、宗教をこのような切り口で書いた人はいるだろうか。
少なくとも、こういうふうに(科学的に?)分析すると、ぼくは非常に理解しやすいのである。
こういう理解の元でもう一度「神は存在するか否か」を考えると、それはどーでもいい問題になるのではないだろうか。
・・・このシリーズ終わり。