・・・・・・っということで、神は利用され続けてきた。
ずっとずっと利用され続けた。
これに異議を唱える人は、アッラァーアクバルと叫ぶテロリストたちを見ればよい。
イエズス会は植民地支配を企む欧州人たちの尖兵だったことを否定する人はいないだろう。
ローマがキリスト教を最終的に受け入れたのも、侵入を繰り返す野蛮人に共通の価値観を植えつけて、自分たちの安全を確保するためだっただろう。
つい最近まで統治者は自らの特権を正当付けるために神を利用したではないか。(王権神授説)
アステカ帝国を滅ぼしたコルテスは、自らの残虐行為を神の名の元に行ったではないか。
・・・・・・
そう、神は利用され続けたのである。
・・・・・・
じゃあ、神を我々の手に取り戻そうではないか。
利用目的ではなく・・・・・・
利用されない神とは何ぞや
神は何のために存在するのか?
少なくとも政治目的のために存在するものではないと信じたい。
神は個人のために存在すべきである。
そう、
個人のために・・・。
個人を救えない神が何で国を救えるものか。
・・・・・・
もう一度原点に帰って、神を考えよう。
神が出来ることを考えよう。
(髪・・・じゃなかった)神を必要とする人たちのことを考えよう。
・・・・・・
すると、神を利用する人たちが見えてくる。
ぼくは神が居ようが居まいが関係ないというスタンスを取ってきた。
神の存在に関係なく、有益に働けばそれでいいじゃないかと。
要するに神の機能論である。
・・・・・・
神を信じられる人のなんと幸福なことよ。
分かって。<m(__)m>
(追記)
これは泥酔時にアップしてしまいました。
自分でも何を書いているか理解できません。
取り消そうとしましたが、恥を承知で残しておきます。
<m(__)m>