・・・・・・っということで、つぎの「公安の役」。
このときは、流石に元は文永の役に懲りて本腰で日本侵攻に取りかかった。
14万の大軍ですぜ。
ピンと来ないですが、それだけの軍隊を日本に送り届けなければならないので、どれだけの船舶が必要だったのでしょう?
そもそも、元は陸軍の国家。
海を隔てて他国を侵略したことがない。
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いや、正確に言えば、朝鮮(新羅)を攻め落とすのになんと30年を要したのです。
尤も、ずっと戦争していたのではなくて、結果的にそれだけの期間が必要だったってぇことです。
元が朝鮮半島くんだりを攻め落とすのに何でそれだけの期間を要したのか?
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どうです?
興味津々でしょ?
えっ?
興味ないって?
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その主な理由は、朝鮮王朝は島にキャピタルを移動したのです。
その島とは「江華島」
なんてことはない陸からすぐそこにある島です。
元はこの島を攻めあぐねた。
それほど元の海軍力は貧弱だったと言って差し支えないでしょう。
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本腰を入れて日本を攻めるのに朝鮮と中国(旧南宋)で船を急造した。
特に中国で建造した船は粗悪であった。
それはマアいいとして、攻撃軍は
1)元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人
2)江南軍人数不詳)・
軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人であった。
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スッゲェ~規模ですよね。
実際、この時代の攻撃軍としては史上最大の規模でした。
ここで、注目して欲しいのが東路軍。
要するに朝鮮軍なのです。
元に協力したとはいえ、秀吉よりずっと以前に奴らは日本を侵略しようとしていたのです。
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先ず、先に準備の整った東路軍が博多に上陸しようとしたけれど、堡塁が整った上陸地点を見てビビり、海の中道の先にある志賀島を占領した。
ところが、日本軍は陸路と海路の両方から志賀島を攻め立てて退却に追い込んだ。
東路軍は隠岐島で江南軍の合流を待った。
その間、日本軍により執拗に海上からの攻撃を受けた。
遅れてきた江南軍と合流出来たものの、そこへ台風がやってきた。
特に損害を受けたのが、粗末な船舶の江南軍であった。
大半の戦力を失った後、元軍の司令部は仲間を鷹島に残したまま逃げてしまった。
あとは、鷹島に残った元の残存兵10数万を掃討するだけであった。
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これをみると、2次軍は本土(博多)にさえ上陸できなかったことになる。
確かに、台風の要素は大きい。
でも、3ヶ月近くも日本軍は元の本土上陸を防いだのである。
「公安の役」1281年6月16日-8月29日をみると、台風の一つや二つ来てアタリマエの季節である。
台風=神風のお陰というより、この間、元軍を防いだので勝ったというほうが正しいだろう。
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こうやって調べてみると、当時の鎌倉幕府は元の侵攻を正々堂々と蹴散らしたのである。
それなのに、なんで神風のおかげで日本は助けられたという歴史観になるのだろう?
オカシイじゃないか?
当時、日本の防衛で奮戦した御家人たちに対して、日本人はもっともっと感謝しなきゃならないのじゃないのか?
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