・・・・・・っということで、後藤さんの件は、残念な結果になってしまった。
最初今回のニュースに接した時、なんて軽率な、そして迷惑な行為をしてくれたんだろうと感じた。
それはぼくのみではなく、大部分の人の偽らざる感覚だっただろう。
だけれど、事件の経過、そして後藤さんの人柄を知るに連れ、そういう感覚は薄れていったのが正直なところではないだろうか。
日本人である限り、事件の推移に心配しなかった者はないだろう。
そして、今朝の結果に深い悲しみを共有していない者はいないだろう。
ジャーナリストについてこれほど考えさせられたこともなかった。
確かにジャーナリストという職業を選んだ以上、現場主義でなければならない。
そうでなければ、他人の配信した情報でしか理解できないことになる。
安全なところにいて現場に出て行かないとすれば、それはジャーナリストではなく単なる評論家であるはずだ。
だが一方で、今回のケースのように、日本人がわざわざ出向くだけの価値があったのか?という気持ちもある。
行く前から、このような結果になることが容易に予想できたはずだ。
命に代えてまで得る価値のあるニュースだったのだろうかと。
ジャーナリストという職業に、その崇高性と愚鈍性を同時に見出し、まだ心の中で整理が出来ていない。
今回、事件が推移するに従い、ジャーナリストは文章で、音声で、そして映像で発信するだけではないことに気付かされたのであった。
彼の行為によって、これほど身近に、ISISの実情、シリアの実情、テロの実情を感じたことはなかったのではないだろうか。
彼が日本人であったからこそ、他のどのニュースよりも身近に感じさせられたのではないだろうか。
そして、国家安全保障会議という(ワケのわからない)組織、いまの政府、外務省、そして安部首相に現実のリスク管理とはどういうものか、テロ対策とはどういうものかを突きつけたのではなかろうか。
これは、全て彼が行動した結果生まれた効果である。
そう考えていくと、彼のジャーナリストとしての行為は、崇高性のほうがより価値を帯びてくるのである。
そういう意味において、彼の死は決して無駄ではなかった。
心から彼の冥福を祈りたい。